関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像2611 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」4 多賀谷三経宛書状4 出陣予定の榊原康政

<<   作成日時 : 2019/04/22 11:45   >>

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 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月8日付多賀谷三経宛榊原康政書状」について次のように解説されています。
 「内容的には、@『其元、御在番』について、『晝夜之御苦労』を察している、A『其表』で『相替儀』があれば、早々に仰せを承りたい、Bこの度の先手は、『拙者』(=榊原康政)に命じられたため、やがて出陣する予定なので、万事はその時に承りたい、としている。
 374頁では慶長5年に比定している。とすれば、上杉討伐に関係する内容ということになれば、とりあえず、本稿では『慶長5年ヵ』としておく。
 125頁の解説では、27、28、29号文書を慶長5年に比定して考えており、多賀谷三経が在陣したのは『多賀谷旧記』をもとに下野国大田原とし、その在番開始時期を、前掲『(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状』(374頁、28号文書)をもとに6月22日としている」と。
 27号文書は、「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」、29号文書は、上記の書状を指します。
 榊原康政は、関ヶ原の戦いの際、秀忠に従い、信州仕置に向かっています。宇都宮を出発したのは8月24日であり、それまでは秀忠は宇都宮にいましたから、榊原も宇都宮にいたものと思われます。
 もっとも、上記の書状の時点では、秀忠が宇都宮に行く前ですから(秀忠が上杉攻めのため江戸を発って宇都宮に向かうのは7月19日)、榊原は江戸にいたものと思われます。「この度の先手は、『拙者』に命じられたため、やがて出陣する予定」という記述が、そのことを物語っています。
 「大関ヶ原展」では、榊原関係のものも多数展示されていました。榊原が所用していた具足、太刀、空穂、矢筒、箙(えびら)、采配、陣羽織、鎧下(よろいした)、小袴(こばかま)などです。そのほとんどは榊原を祀る新潟の榊神社や榊原家の所蔵になるものです。「大関ヶ原展」には展示されていませんでしたが、上杉攻めの際、榊原が家康から拝領した南蛮胴具足があり、東京国立博物館が所蔵しています。
 「大関ヶ原展」に展示されていた具足についての図録の解説によれば、榊原が永禄6年(1563)に三河の一向一揆との合戦に初陣した時に着用したと伝えられるものです。榊原に初めて家康に拝謁したのが永禄3年ですから、三成が生まれた年であり、また今川義元が信長に桶狭間の戦いで討ち取られた年でもあります。
 

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