石田三成の実像2612 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」5 多賀谷三経宛書状5 軍役奉仕

 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月11日付多賀谷三経宛福原資孝書状」について次のように解説されています。
 「内容的には、①家康(『内府様』より)『御蔵之儀』について『被仰遺候哉』と尋ねた、②それについて『竹木御用之由』について命じられたが、『我等在所』は『材木一圓』なく、『竹之儀』も細いため御用に立たない、としている。
 125頁の解説では、この書状(30号文書)について、『会津攻略の先鋒拠点を守備する結城秀康旗下の多賀谷三経に対して、同様に「御蔵」なる徳川方の武器庫普請に当たるべく命を受けた福原資孝(福原〈現栃木県大田原市〉城主)が普請材料としての竹調達の困難を報じたものである。関ヶ原合戦直前の北関東の情勢の一端が知られるし、三経の軍役奉仕を通じてこの時期の太田多賀谷氏の立場が明らかである』としている。ただし、本稿では『慶長5年ヵ』としておく」と。
  福原資孝は大田原資晴の子ですが、福原氏に養子に入りました。大田原氏も福原氏も那須氏の家臣であり、福原資孝はやかで那須氏の実権を握りました。福原は関ヶ原の戦いで家康方に付いたため、戦後、徳川家の旗本になっています。
 三経が、上杉攻めで「軍役奉仕」をしていたことを示す書状ですが、三経が在番したのは6月22日ですから、その後、いろいろと任務に当たっていたわけです。もっとも、この時点では、上杉攻めは豊臣公儀による戦いという位置づけですから、北関東の武将たちが、上杉攻めに参加しようとしていたのは当然と云えます。しかし、この後、「内府ちかひの条々」が豊臣三奉行がよって出されて、家康の公儀性は失われましたから(白峰氏の見解)、上杉攻めの正当性もなくなったにもかかわらず、なお北関東の武将たちが家康の意向に従い、上杉の南下に備えたというのはなぜかという問題は改めて考えてみる必要があります。
 北関東の武将たちは、家康の領地と隣り合わせでしたから、大大名の家康に反旗を翻すことはできなかったのかもしれませんし、秀吉の死後の実力者は家康と見なしていたとも考えられます。家康に従って、上杉攻めのために東下した豊臣恩顧の武将たちも、「内府ちかひの条々」が出された後も、三成・毛利ら豊臣公儀側に付かず、家康の味方をしたのは、ポスト秀吉は家康だと見なしていたのかもしれません。むろん、その段階で、武将たちは豊臣政権自体を打倒するつもりはなかったと思いますし、家康は秀頼の後見人としての立場を貫くと考えていた者は少なくなかったのではないでしょうか。

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