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zoom RSS 三成の実像2613 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」5  

<<   作成日時 : 2019/04/24 10:59   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、上杉景勝の動向について、次のように記されています。
 「この時期、年寄のひとりである上杉景勝は領国の仕置きのため、会津にくだっていました。豊臣秀吉の訃報に接した上杉景勝は、会津の仕置きを江戸にいた徳川秀忠に依頼したうえで、9月17日、会津を出発し、10月7日に伏見に到着しました。
 そこで徳川秀忠は、上杉家領国の仕置きのため、家臣・大久保忠隣を会津へつかわしました。
 上杉景勝は徳川家康の指示通りに動いており、もちろん、対等の関係であるとはいえません。もしも上杉景勝が徳川家康の指示に従わず、上洛を拒否したとしたら、それは豊臣政権への反逆行為であるといえるでしょう」と。
 上杉景勝が会津への転封が秀吉によって言い渡されたのは、慶長3年1月のことであり、この転封をスムーズに進めるために、三成も直江兼続に協力して任務に当たりました。景勝は新しい領国の仕置に奔走している時に、秀吉の訃報が届き、急いで上洛することになりましたが、その仕置きの続きを秀忠に依頼したわけです。
 家康が上杉景勝の上洛を「御大儀」と記した10月2日付の景勝宛ての家康書状、10月23日付で上杉氏の三家臣に宛てたに秀忠書状が史料として挙げられています。
 確かに、高橋氏の見解通り、上杉氏が上洛を拒否したら、豊臣政権への反逆になったのでしょうが、景勝は毛頭そういうことは考えていなかったはずですし、上洛して豊臣政権の大老としての役目を果たすことを第一義と考えていたものと思われます。むろん、領国のことは心配していたでしょうが。
 上杉氏の上洛を促すことは、家康一人の意思ではなく、大老衆、奉行衆の総意だったのではないでしょうか。また三成も上杉氏の上洛を歓迎したと思われますし、実際、この後に起こった家康の婚姻問題に関しても、三成を切腹させようとする訴訟騒動が起こった時も、上杉景勝は三成の側に立っています。もっとも、家康の婚姻問題に関しては、家康を除く四大老・五奉行の名で糾弾していますから、景勝は三成というより、豊臣公儀の側に立ったと云えますが。家康を糾弾できたのは、五大老・五奉行制があったからだと私は思っているのですが、五大老・五奉行制はなかったと提唱されている高橋氏は、この家康の婚姻問題について、別の見解をお持ちかもしれません。高橋氏の同書では、まだそこまで論じられていませんから、続編でどう論を展開されるのか、それを俟ちたいと思います。

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