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タイトル 日 時
三成の実像2619 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」11
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、C「慶長3年9月19日、&#37026;&#29600;配下の援朝明軍は四道より朝鮮半島南岸へ攻め寄せた」の中で、次のように解説されています。  「このころの援朝明軍の総司令官は、経略・&#37026;&#29600;です。&#37026;&#29600;は北京の科挙官僚(文官のエリート)として兵部尚書(明帝国における軍政のトップ)の地位にありましたが、慶長2年(1597)の日... ...続きを見る

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2019/04/30 00:50
フランス文学探訪87 ジイド「法王庁の抜穴」3   「動機なき殺人」が最大のテーマ
  この小説の最大のテーマは「動機なき殺人」ですが、衝動的に殺したのがラフカジオに全く無関係の人物ではなかったことが後で分かりますし、夢のような気持ちで人を殺して以来、悪夢の中で彼はもがき苦しむようになります。ラフカジオは首尾一貫しないのが人間であるとの持論を持ち、小説に不満を持っているのは、主人公が作家の主張通りに行動してゆく、すなわち主人公が作者の傀儡(かいらい)的な存在になっていることに対してなのです。ジュリユスはそういうラフカジオの不満を受けて、行動に首尾一貫しない主人公、まるで遊戯のよ... ...続きを見る

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2019/04/29 09:15
三成の実像2618 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」10
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、B「慶長3年9月16日、島津龍伯は上方の様子を泗川の島津忠恒にしらせた」の中で、史料としてこの書状が取り上げられ、その書状の追記部分の後半について、次のような内容が紹介されています。  「また、このまえ石田三成老のもとへ参上したとき、あなたたち島津義弘・忠恒父子がともに、そのまま薩摩へ帰国してもよいかとうかがったところ、石田三成老は『こなたの分別次第(そちら島津家で判断しなさい... ...続きを見る

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2019/04/29 09:07
フランス文学探訪86 ジイド「法王庁の抜穴」2  絡み合い、錯綜した人間関係
 第一章では、無神論者の秘密結社員アンテムが動物実験三昧の生活を送っていたのに、ある時、聖母の像に乱暴を働き、その夜、聖母が夢に現れたのをきっかけにして、自分の足が治るという奇跡が起こります。彼はそれで信仰心が芽生え、カトリックに帰依しますが、教会の援助は得られず、破産同然の身の上になります。   第二章では、アンテムの義弟の作家ジュリユスが、余命わずかな父親から、隠し子のラフカジオの調査を頼まれます。ラフカジオはプライドの高い反抗児ですが、初めて父親の存在を知り、父との対面を果たし、ジュリユ... ...続きを見る

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2019/04/28 22:56
三成の実像2617 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」9
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、B「慶長3年9月16日、島津龍伯は上方の様子を泗川の島津忠恒にしらせた」の中で、史料としてこの書状が取り上げられ、その2条目の内容が次のように紹介されています。  「たびたび申しているように、豊臣政権へ上納するべき蔵入米7千石のうち、今日9月16日まで、(その10分の1である)7百石すらも来ていないようです。さてさて、上井甚五郎はどうしてこれほどの大失態をしてしまったのでしょう... ...続きを見る

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2019/04/28 00:05
フランス文学探訪85 ジイド「法王庁の抜穴」1 リアリズム小説からの脱却・作品への「私」の介入 
 「法王庁の抜穴」は以前は文庫で出ていましたが、今は本を手に入れるのが難しいのではないでしょうか。この作品を取り上げたのは、個人的なことになりますが、大学の卒論で取り上げたからです。もっとも、卒論ではもう一作「贋金つかい」にも少し触れてはいますが。「法王庁の抜穴」の内容に入る前に、卒論のテーマを少し述べておきたいと思います。  二十世紀文学は、十九世紀のリアリズム小説の枠からどのようにして抜け出すか、その方法の模索から始まりました。十九世紀のリアリズム小説では、作者は三人称という形を用いるこ... ...続きを見る

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2019/04/27 09:17
三成の実像2616 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」8
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、A「慶長3年9月6日、照高院道澄は島津義弘の病気平癒を祈祷した」の中で、史料として9月13日日付の島津忠恒宛島津龍伯書状が取り上げられており、三成のことについても触れられていることは前述しましたが、書状の前半の内容について、次のように説明されています。  「7月25日の書状と、山田弥九郎の口頭での説明をくわしく承りました。なによりもまず、義弘が病気をしたことには驚いてしまいまし... ...続きを見る

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2019/04/27 08:09
フランス文学探訪84 ジイド「田園交響楽」2  カトリックと新教
 牧師は新教であるのに対して、ジェルトリュードは、牧師の息子のジャックの勧めに従って生前、カトリックに改宗していました。カトリックと新教の問題はなかなか難しいのですが、ジャックが改宗したのは、父親に対する反発ゆえのことだと思われます。カトリックでは罪悪観が厳しく、それに対する批判がこの小説には込められている気がします。あまりにも罪というものを意識し過ぎたジェルトリュードの悲劇的な最期を描いているからです。新教はあくまで聖書に忠実であろうとします。小説の中にも、「福音書をすっかり探してみたが、戒律... ...続きを見る

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2019/04/26 20:38
三成の実像2615 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」7
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、A「慶長3年9月6日、照高院道澄は島津義弘の病気平癒を祈祷した」の中で、史料として8月28日付の島津忠恒宛島津龍伯書状が取り上げられ、次のように解説されています。  「慶長3年8月28日、伏見にいた島津龍伯のもとに、『島津義弘は7月ごろから体調を崩している』という情報(7月25日付)がはいりました。島津龍伯は、泗川在陣の島津忠恒へ書状を書き送り、島津義弘の病状をたずねました」と... ...続きを見る

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2019/04/26 00:04
フランス文学探訪83 ジイド「田園交響楽」1 盲目の女性が手術を受けて見た世界 
 ジイドの「田園交響楽」は牧師の手帳という形式を取った小説で、終始一人称で語られます。彼は身寄りがなくなった盲目の女性ジェルトリュードを自分の手元に引き取ります。初めは言葉もしゃべれず、獣のようにうなったり、うめいたりするだけでしたが、牧師の献身的な世話によって、彼女は次第に人間的な心を取り戻し、飛躍的な成長を遂げます。牧師の妻は、そんな夫に非難の目を向けます。自分の子供の面倒は見てくれず、ジェルトリュードにばかり関わっているからですし、目ざとい妻は、夫の気持ちの中に、彼女への思いがあることに気... ...続きを見る

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2019/04/25 23:28
三成の実像2614 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」6
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、A「慶長3年9月6日、照高院道澄は島津義弘の病気平癒を祈祷した」の中で、「照高院道澄による祈祷が成就したことを伝え」た、9月13日付の島津忠恒宛島津龍伯書状が取り上げられていますが、その書状で三成のことにも触れられています。  すなわち、「石田三成老が、10月2日にこちら伏見を出発なされますので、すぐに朝鮮との和平交渉は成立し、日本へ帰朝のはこびとなるでしょう。そのための船は、... ...続きを見る

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2019/04/25 10:26
フランス文学探訪82 ジイド「狭き門」2 信仰の犠牲になった二人・作者の苦悩が反映 
 相思相愛の者同士がどうして結ばれないのか、読むたびにもどかしい思いがする作品です。無宗教の私などは、アリサは信仰の犠牲になったのだと、単純に考えてしまいます。現世の幸せを求めず、天上の愛にすがろうとするのは美しいことだとはいえ、主客転倒しているような気がしてなりません。  このアリサにはモデルがあって、ジイドが結婚したマドレーヌといういとこの女性ですが、小説の設定とよく似た状況になっています。男より年上であったこと、母親の不倫に苦しみ、余計信仰にすがることになったことなど。しかし、決定的に... ...続きを見る

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2019/04/24 16:44
三成の実像2613 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」5  
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、上杉景勝の動向について、次のように記されています。  「この時期、年寄のひとりである上杉景勝は領国の仕置きのため、会津にくだっていました。豊臣秀吉の訃報に接した上杉景勝は、会津の仕置きを江戸にいた徳川秀忠に依頼したうえで、9月17日、会津を出発し、10月7日に伏見に到着... ...続きを見る

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2019/04/24 10:59
石田三成の実像2612 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」5 多賀谷三経宛書状5 軍役奉仕
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月11日付多賀谷三経宛福原資孝書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@家康(『内府様』より)『御蔵之儀』について『被仰遺候哉』と尋ねた、Aそれについて『竹木御用之由』について命じられたが、『我等在所』は『材木一圓』なく、『竹之儀』も細いため御用に立たない、と... ...続きを見る

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2019/04/23 16:53
フランス文学探訪81 ジイド「狭き門」1  恋人の信仰の邪魔をしているのが自分だと思い身を引く女性
 アンドレ・ジイドの小説の中で一番有名なのが、「狭き門」でしょう。今でも難関大学などに入るのは「狭き門」だという言い方をします。もともと聖書にある言葉で、「力を尽くして狭き門より入れ」というキリストの言葉から来ています。信仰に入る道がいかに困難かを述べた言葉です。  この小説の語り手はジェロームという青年ですが、彼は二つ年上のいとこのアリサのことが好きになり、彼女も同様に彼を愛するようになります。アリサの母が男と家を出てしまったということもあり、アリサはますます内向的になり、信仰によりどころ... ...続きを見る

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2019/04/23 16:43
石田三成の実像2611 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」4 多賀谷三経宛書状4 出陣予定の榊原康政
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月8日付多賀谷三経宛榊原康政書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@『其元、御在番』について、『晝夜之御苦労』を察している、A『其表』で『相替儀』があれば、早々に仰せを承りたい、Bこの度の先手は、『拙者』(=榊原康政)に命じられたため、やがて出陣する予定なの... ...続きを見る

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2019/04/22 11:45
フランス文学探訪80 「チボー家の人々」7 アントワーヌの安楽死・国際機関の必要性  
 アントワーヌは最後まで宗教にすがることはせず、司祭の言葉も受け入れませんでした。体が衰弱し、声も出なくなり、ベッドから立ち上がることもできなくなった時、最後の力を振り絞って自分に安楽死の注射を打ったのです。時に1918年11月。第一次世界大戦終戦間際のことでした。  彼の最後の日記は、自分が死ぬまでの病状をつぶさに語っており、臨床記録として大いに役立ったでしょうし、彼もそのために記録を残したのです。私は正岡子規の「病床六尺」「仰臥漫録」に匹敵するものだと思っています。むろん、一方はフィクシ... ...続きを見る

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2019/04/21 22:45
石田三成の実像2610 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」3 多賀谷三経宛書状3・三経は三成の養子? 
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」(4月16日付の拙ブログ記事で取り上げた書状とは別文書です)について次のように解説されています。  「内容的には、@(6月)22日巳の刻に、多賀谷三経が着いたとのことで、一段と急がれたからと『我等令満足』している、A『其元』では油断なく精を入れ... ...続きを見る

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2019/04/21 11:09
三成の実像2609 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」4
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられていますが、その中の「人数不人之由被申止候間(人数は必要ないと止められた)」という記述について、次のように指摘されています。  「徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家ら三人の... ...続きを見る

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2019/04/20 10:59
フランス文学探訪79 「チボー家の人々」6 アントワーヌの残した日記・チボー家の跡取りへの忠告  
 アントワーヌが最後に残した日記が、小説のラストを飾ることになるのですが、これがなかなか奥深い内容になっています。彼は自分の命が残り少ないことを自覚していますし、医者として、自分の体の状態を誰にもましてよく分かっているのです。彼はそれまで自らを誇り、精力的にばりばりと活動してきただけに、病気の自分との落差を覚えて、最初はショックを受けます。しかし、次第に自分の病状を受け入れ、病気になることによって、今まで見えなかったことが見えてきたと悟るようになったのです。彼は自分の未来をジャックとジェンニーの... ...続きを見る

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2019/04/20 10:35
三成の実像2608 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」3  
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「わざと飛脚をもって申しつかわします。  一、朝鮮との和平交渉については、これまでは加藤清正主導によって行なうようにとの(豊臣秀... ...続きを見る

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2019/04/19 18:35
フランス文学探訪78 「チボー家の人々」5  戦争が変えた兄弟の運命 
 ジャックはジェンニーをパリに残したままスイスに帰りますが、使命感はかえって高まり、戦争が始まってからも、反戦を呼びかけるビラを双方の前線に配るべく、仲間と飛行機に乗り込みます。  しかし、その飛行機が事故を起こして墜落し、操縦士は死に、ジャックは重傷を負います。フランスの兵士たちはジャックをスパイと見なし、彼を担架に乗せて運びますが、敵に追われ、退却を余儀なくされる途中で、足手まといになったジャックはフランス兵士に撃ち殺されてしまいます。なんともやり切れないジャックの最期ですが、戦争とは愚... ...続きを見る

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2019/04/18 10:43
三成の実像2607 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」2
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということについて、次のように説明されています。  「政権の運営をの運営をたくされた徳川家康にとって最初にとりくむべき課題は、和平交渉のとりまとめと、朝鮮へ送り込んだ人数の引き揚げです。徳川家康は、三人の年寄(前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元)、五人の奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・石田... ...続きを見る

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2019/04/18 10:31
受贈御礼 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」1 三成の実像2606
高橋陽介氏より新著「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」をご恵贈賜わりました。この場を借りてお礼申し上げます。  この書は、「豊臣秀吉の死去は朝鮮在陣の島津義弘らにどのように伝わったのか」の続編であり、前作同様、当時の人々の書状や日記などを時系列に並べて、当時の状況を説明したものです。  高橋氏の新著の最後の「参考文献」の中に、拙ブログの題とアドレスが掲載されているのには恐縮すると共に、光栄に感じました。  まず@「慶長3年9月... ...続きを見る

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2019/04/17 17:28
フランス文学探訪77 「チボー家の人々」4 第一次世界大戦前の反戦運動と頓挫
 この大河小説は「1914年 夏」という部分が突出して異様に長く、小説を前半・後半に分けた場合、その後半の大部分を占めており、いかに作者がこの部分に重きを置いていたかが分かります。この年の夏と言えば、第一次世界大戦が勃発した時であり、この小説はその前後のことを日に追って実に克明に描いています。  一番の驚きは、みんなが戦争に賛成したわけではなく、各国で労働者を中心とした反戦運動が大規模に起こっていたことであり、それはインターナショナルのうねりとなって一時は戦争開始を防げるのではないかという期待... ...続きを見る

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2019/04/17 00:09
石田三成の実像2605 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」2 多賀谷三経宛書状2 秀忠より秀康に出馬要請
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@『其元』へ着いたであろうか、諸事油断なく申し付けることが肝要である、A昨日(=6月22日)、江戸(=徳川秀忠)より『其表』の『模様次第』に『出馬』すべき旨を申して来た、B『相替儀』があれば... ...続きを見る

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2019/04/16 10:45
フランス文学探訪76 「チボー家の人々」3  悶え苦しむ父を安楽死させた医師アントワーヌ 
 父親のオスカールはジャックが自殺したと思い込んで体調を崩し、やがて寝たきりの生活になり、余命いくばくもない状態になってきます。その最期の姿はなんともすさまじく、見苦しいものでした。死を前にして、今までの信仰は何の役にも立たず、司祭の慰めの言葉も拒むほどでした。今までの彼の信仰が本物ではなかったという証拠ですが、司祭に模範的な死を迎えた方が後のためになると諭され、ようやく心が収まるのです。地位の高い人ほど死に際は見苦しいと、ある看護士が講演で言っていましたが、オスカールの場合も同様です。  ... ...続きを見る

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2019/04/15 23:58
石田三成の実像2604 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」1 多賀谷三経宛書状 三経の烏帽子親は三成
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられています。  まず「(慶長5年)12月28日付多賀谷三経ヵ宛本多正信書状」について、次のように解説されています。  「内容としては、『来春』は『会津へ可為御動候間』、その時に『以面上萬ゝ可申達候』としてい... ...続きを見る

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2019/04/15 10:48
石田三成の実像2603 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」25
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘されており、その続きで、E点目です。  「喜連川頼氏の書状では、徳川秀忠は『中納言殿』というように殿付であるが、徳川家康は『内府』というように殿付でも様付でもないが、こうした差異をつけた理由はよくわからない」と。  このこ... ...続きを見る

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2019/04/14 12:24
フランス文学探訪75 「チボー家の人々」2 権威主義的な父、再度家出するジャック  
 アントワーヌとジャックの父親であるオスカールは敬虔なカトリック教徒であり、学士院会員を始めとして法学博士、県選出代議士、パリ司教管区カトリック事業委員会名誉総裁など数々の肩書きを持つ名士でした。彼は息子のジャックが家に戻った後も反抗的姿勢が変わらないのを見て取り、自分が経営する少年の更正施設に入れてしまいます。アントワーヌはジャックの様子を見に行きますが、監禁と懲罰によって、精神的な自由を奪われ、無気力に陥っている姿を知って、これではかえって本人のためにならないと、父親に直談判して、自分の責任... ...続きを見る

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2019/04/14 11:38
フランス文学探訪74 「チボー家の人々」1 理性的な医者の兄と、反逆児の弟を軸とした大河小説 
 この三月末で、「ヤフー」のホームページサービス「ジオ・シティーズ」が閉鎖されましたが、そこに掲載していた「フランス文学探訪」の方も拙ブログで順次紹介してゆきたいと思います。 ...続きを見る

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2019/04/13 11:07
石田三成の実像2602 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」24  
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘されており、その続きで、D点目です。  「喜連川頼氏は、関ヶ原の戦いのあとも、依然として上杉景勝の動向を注視・警戒していたことがわかるが、このことは翌年(慶長6年)7月の上杉景勝の上洛まで上杉景勝の領国との『境目』である下... ...続きを見る

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2019/04/13 10:43
旅行記141 最初のフランス旅行(1980年)9 最後にスイスへ  
 最後の二日間はスイスで過ごしました。帰りの便がチューリッヒ空港からの出発だったので、そこまでたどりつく必要がありました。  グルノーブルからの電車でジュネーブに入りました。ジュネーブはフランス語圏で、フランス語が通用したので、不自由しませんでしたが、驚いたのはフランスと比べて、かなり物価が高かったことです。レートも当時は、700フランが270スイスフランぐらいでした。  友と二人でイギリス公園、歴史美術博物館、宗教改革記念碑などを見、レマン湖を周遊する観光船に乗りましたが、なかなか美し... ...続きを見る

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2019/04/12 18:44
石田三成の実像2601 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」23
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘されており、その続きで、B点目です。  「喜連川頼氏は、上杉討伐について『奥州御陣』、『奥州鉾楯』、『奥口之事』、『会津筋之儀』、『御陣』、『会津之様子』、『奥口之儀』などと表記していて興味深い」と。   上杉攻めを「奥... ...続きを見る

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2019/04/12 10:51
石田三成の実像2600 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」22  
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめのA点目として次のよなことが指摘されています。  「喜連川頼氏にとって、豊臣公儀サイドの取次は山中長俊と増田長盛であり、徳川家康サイドの取次は井伊直政、徳川秀忠サイドの取次は大久保忠隣であったことがわかる」と。  山中長俊は前述したように、... ...続きを見る

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2019/04/11 23:35
旅行記140 最初のフランス旅行(80年)8 アビニョン、マルセーユ、エックス・アン・プロバンス  
 南フランスのアルルで三泊、マルセーユで二泊しました。当初はその次の日にスイスに入る予定でしたが、マルセーユの両替所が土曜で閉まっていたため、スイスフランに両替することができず、日曜にスイスに入れば、同じように両替できない可能性があると考え、もう一日フランスにいることにしました。月曜なら確実に両替できるでしょうから。  もう一泊することに選んだ所がグルノーブルでした。アルルでは前回述べたように、遺跡や博物館を見たり、町のはずれまで散策したりしましたが、半日アビニョンに出向いて法王庁を見学しま... ...続きを見る

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2019/04/10 17:53
石田三成の実像2599 BSの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」5
 BSイレブンの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」の中で、まとめとして白峰旬氏は関ヶ原の戦いについて、次のように指摘されていました。  「江戸時代は徳川幕府が政治を行った時代であるので、どうしても関ヶ原の戦いというものは江戸幕府が成立するための通過点になる。そうなってくると、関ヶ原の戦いで家康がどういう指示をしたのか、問鉄炮の話もそうであるが、徳川家にとって都合のいい歴史像というか、徳川家の政治支配を正当化するような歴史図を作っていった。その中で一つの関ヶ原像というものが出来てきて、それがま... ...続きを見る

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2019/04/10 11:04
石田三成の実像2598 BSの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」4 霧の中での赤い甲冑
 BSイレブンの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」は、霧の中で、井伊直政の赤備えの甲冑が見えるのかどうか、科学的に検証されていました。もっとも、この検証は、関ヶ原の戦いの際、井伊直政と松平忠吉が抜け駆けして、宇喜多秀家隊に発砲したのがきっかけになって、戦いが始まったという通説に基づくものであり、その通説自体の検証はなく、物足りなさを覚えました。  この点について、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、「井伊直政と松平忠吉が抜け駆けをし、合戦の火ぶたを切ったという話も後世の創作です... ...続きを見る

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2019/04/09 10:49
旅行記139 最初のフランス旅行(1980年)7 パリに12日間滞在後、南仏アルルへ  
 当時の日記を読み直してみると、パリには十二日間滞在していました。今から思うと随分ゆっくり過ごしていたものですが、それでもまだまだ見たいところはたくさんありました。しかし、最後はスイスのチューリッヒから飛び立たねばならず、南仏に旅立つことにしました。  まず、アルルに向かいました。切符を買うとき、このアルルという発音がうまく通じるかどうか不安でした。なにしろ、日本人にとっては苦手なRとLの発音が交じっているのですから。しかし、駅員に問い返されることもなく、無事に切符を買うことができました。 ... ...続きを見る

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2019/04/08 12:16
石田三成の実像2597 BSの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」3 関ヶ原の戦いと呼ばれたわけ
 BSイレブンの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」は、関ヶ原の戦いについてのこれまでの通説を覆す、白峰旬氏の新見解がいろいろ紹介されていましたが、白峰氏は通説の関ヶ原の戦いの布陣図は、明治時代に参謀本部が作った「日本通史」に出ている関ヶ原の布陣図が基になっていると指摘されていました。  参謀本部が作った関ヶ原の布陣図は、今われわれが知っているような、三成は笹尾山、家康は桃配山、秀秋は松尾山に布陣し、三成らいわゆる西軍は鶴翼の陣、東軍は魚鱗の陣を敷いているが、その布陣図には根拠がなく、参謀本部... ...続きを見る

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2019/04/08 10:54
石田三成の実像2596 BSの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」2 山中での戦い・鉛玉が出土
 BSイレブンの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」は、関ヶ原の戦いについてのこれまでの通説を覆す、白峰旬氏の新見解がいろいろ紹介されていましたが、関ヶ原の戦いは通説では関ヶ原エリアで行われてきたと考えられてきたが、吉川広家や他の武将の書状の中で「山中」という言葉が出てきており、主戦場は関ヶ原ではなく山中エリアで行われたと説明されていました。  家康の側近が戦い直後に伊達政宗に宛てた書状には、「今月15日正午、濃州の山中において一戦に及び、宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・石田三成ら武将をことご... ...続きを見る

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2019/04/07 11:04
旅行記138 最初のフランス旅行(1980年)6 アンバリッドのナポレオンの墓  
 テレビや新聞に、ナポレオン毒殺説が紹介されていましたが、大いに興味を持ちました。ナポレオンの髪の毛を調べると、大量のヒ素が検出され、致死量を超えていたため、彼の死因はヒ素中毒であると法医学者が断定したといいます。もっとも、その髪の毛がナポレオン自身のものかを疑う人もおり、この論争はまだ続くものと思われます。  さて、ナポレオンの墓があるのがアンバリッドで、私も二十年前に行きました。位置から言うと、エッフェル塔の近くであり、エッフェル塔の前も通りましたが、塔自身には上りませんでした。アンバリ... ...続きを見る

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2019/04/06 17:41
石田三成の実像2595 BSの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」1 問鉄炮の検証
 BSイレブンの番組「歴史科学捜査班 真説・関ヶ原」は、関ヶ原の戦いについてのこれまでの通説を覆す、白峰旬氏の新見解がいろいろ紹介されていましたが、まず家康が小早川秀秋に裏切りを促したという、いわゆる「問鉄炮」があったかどうかについて、科学的に検証されていました。  家康が最後の陣跡とされる陣場野から鉄炮を撃って、松尾山の小早川に聞こえるどうかを確かめていましたが、2.5キロ離れた松尾こ山山頂でも、1.5キロ離れた松尾山の麓でもまったく聞こえていませんでした。陣場野から4百メートル離れた井伊直... ...続きを見る

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2019/04/06 14:57
旅行記137 最初のフランス旅行(1980年)5 バカンスの季節でパリは観光客ばかり  
 初めてのフランス旅行は夏の季節でしたから、フランス人自身はバカンスの最中であり、南フランスなどに出かけていて、パリの店も半分近く閉まっていました。パリの街はフランス人より、外国から来た観光客で溢れていました。勢い、日本人の観光客も多く、有名な観光地に行くと、必ずと言っていいほど、日本のツァー客に遭遇しました。二十年前でもこのような状況でしたから、今はもっと日本人で溢れかえっているに違いありません。夏のパリは外国人に占領されていると言っても過言ではありません。  この時は、パリからアルル、マ... ...続きを見る

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2019/04/05 10:31
旅行記136 最初のフランス旅行(1980年)4 ゆったりとした時間を過ごす  
 自由旅行は自分でゆったりとした時間を過ごすことができ、その点でもパックやツァーの旅行では味わえない良さがあります。特にフランスでは、時間に追われず、ゆっくりと過ごして欲しいものですし、実際私も初めてのフランス旅行ではその醍醐味を充分に味わうことができました。  夏に行きましたから、昼が長くて、なかなか夜になりません。八時でもまだ明るく、十時になってようやく夜が訪れるという感じでした。その当時、フランスはサマータイムを採用しており、一時間、時刻が早くなっています。ヨーロッパはどの国もサマータ... ...続きを見る

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2019/04/04 18:58
石田三成の実像2594 厳島と三成2 秀吉は朝鮮出兵の際、参詣
 秀吉の厳島神社の参詣入口のそばの階段を登ったところに、五重塔と千畳閣が建っています。千畳閣は、秀吉が九州攻めをした天正15年(1587)に、安国寺恵瓊に命じて大経堂(読経所として)建てたものですが、秀吉の死によって未完成のまま残されました。明治時代になって、安置されていた仏像は大願寺に移され、千畳閣は豊国神社になりました。加藤清正もここに祀られています。  先日、加藤清正に朝鮮出兵を命じた天正20年3月23日付の秀吉朱印状が発見されたというニュースが報じられていましたが、この3日後に秀吉は京... ...続きを見る

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2019/04/04 10:55
旅行記135 最初のフランス旅行(1980年)3 昔ながらのパリの街並み・地名もそのまま  
 パリの中心は昔ながらの街並みをとどめています。それはローマの町でも同じで、どんどん街の様子が変わってゆく日本の都市とは根本的に違います。  モンパルナスのあたりは超高層ビルが建っていましたが、他の地区は昔ながらの景観を保っていました。自分の国の伝統文化を大事に守ろうという姿勢をありありと感じました。  現在、フランス文学を読む際も、地名が登場してくるたびに、なるべくその地名を地図で確認しますが、通りの名前なども全くと言っていいほど変わっていません。アルセーヌ・ルパンのシリーズもそうであ... ...続きを見る

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2019/04/03 20:48
石田三成の実像2593 厳島と三成1 九州攻めの際の和歌・秀吉の死の直前の参詣
 3月25日から2泊3日の家族旅行で、広島の宮島に行って来ました。その詳しい内容については、フェイスブックの方で写真入りで紹介していますので、興味のある方はそちらの方を御覧ください。 ...続きを見る

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2019/04/03 16:37
旅行記134  最初のフランス旅行(1980年)2 地下鉄の回数券を利用してパリ巡り  
 大きな都市には地下鉄が走っています。それを大いに利用して、地図を片手に自分の足で街中をいろいろ廻ってみるのがよいと思います。初めてのフランス旅行において、パリに滞在している間は、地下鉄(メトロ)に毎日乗りました。おかげで、今もパリの大まかな地図は頭に入っています。  昨年(2001年に書いた記事です)、家族でイタリア旅行に赴きました。八日間の旅で、あまりゆっくりもしておられませんでしたが、ミラノ・フィレンチェはそれぞれ一日、ローマは二日間、自分達で街中を廻りました。その際も、ミラノとローマ... ...続きを見る

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2019/04/02 12:31
石田三成の実像2592 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」21
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘され、@点目は次の点です。  「@慶長5年6月前後、喜連川頼氏はしきりに上杉討伐に関する情報を各方面(豊臣公儀サイドの取次である山中長俊、増田長盛、徳川秀忠サイドの取次である大久保忠隣)から収集しようとしていたが、その理由... ...続きを見る

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2019/04/02 12:20
石田三成の実像2591 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」20
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのうち「(慶長9年)7月4日付大久保忠隣・本多正信宛喜連川頼氏ヵ書状写」が取り上げられ、その次のように解説されています。  「内容的には、@『其地御普請』について『内ゝ』に『御見舞』に行きたいが、『夏中、病気』であったので『無其儀候』という状況である... ...続きを見る

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2019/04/02 12:19
石田三成の実像2590 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」19
  白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのうち「(慶長6年)9月6日付本多正信宛喜連川頼氏ヵ書状写」については前述しました。同日付の「山中長俊宛喜連川頼氏ヵ書状写」も取り上げられ、内容的に重なる部分もありますが、それは別にして、次のように解説されています。  「喜連川頼氏から山中長俊に対し... ...続きを見る

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2019/04/01 10:42

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