旅行記146 石田三成の実像2625 壱岐対馬を経て韓国へ5 波戸の生駒親正陣跡が三成陣跡か

 
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 4月27日の午後、名護屋城跡を見た後、そこから北東に当たる波戸の生駒親正陣跡あたりに車で行き、さらにその先端の波戸岬まで足を延ばしました。突風で、帽子が飛ばされたこともありました。
 写真は生駒親正陣跡の近くで東の海の方を向いて撮ったものです。位置から言えば、生駒陣跡は写真のすぐ右側、すなわち南側にあります。当時の船は、写真の右側(南側)の方から港を出て行き、左側(北側)から岬を出て、壱岐・対馬を経て釜山に進軍して行きました。
 生駒親正陣跡は、かつて三成の陣跡であったところではないかと中井俊一郎氏は、かねてより主張されています。その根拠として挙げられているのは、佐竹家の被官であった平塚滝俊書状の次のような記述です。
 「当家の陣所の北側の峰に石田殿の陣所があります。一人涼しい地形にあります。前の方の峰に大谷吉継殿の陣所です。その前には上杉景勝殿の陣があります」と。
 現在、波戸の佐竹義宣陣跡とされている場所のすぐ北に、生駒親正の陣跡があります。佐竹の陣跡から少し南に行ったところに、上杉景勝の陣跡があります。位置から言えば、生駒親正の陣跡が、かつて三成の陣跡があったところではないかというわけです。
 現在、三成の陣跡とされているところは、名護屋城跡の南西に当たる野元に比定されています。その根拠は、「名護屋御陣所割写」ですが、作られた年代は不明です。今回は野元の三成陣跡には行きませんでしたが、4年前には訪ねました。今は個人の所有地になっており、藪や田畑があり、立ち入れません。名護屋城からは遠く離れており、唐津街道を扼する要衝との説はあるものの、違和感はぬぐえないと中井氏は論じられ、三成の陣跡は最初は波戸岬にあり、朝鮮の役の主役から降ろされた時点で、名護屋城から離れた野元に陣替えされたのではないかと推定されています。
 このことは、オンライン三成会編「三成伝説」の「肥前・名護屋の章」(サンライズ出版)の中で、詳しく述べられています。
 われわれ一行は、この後、車で博多に戻り、焼き鳥屋で出陣式ならぬ宴会を行いました。いよいよ、次の日からは、壱岐、対馬、そして韓国へ向けての旅が始まりました。壱岐に行く高速船は、8時に博多港から出るので、翌日は6時半に起床して、7時15分にホテルからタクシーで港に行きました。予約はしていたものの、乗船券は窓口で買わねばならず、早めに行ったわけです。果たして、窓口には切符を買う人々の行列ができていました。

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