関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 旅行記147 石田三成の実像2626 壱岐対馬を経て韓国へ6 勝本城跡・御座所予定・三成も立ち寄る

<<   作成日時 : 2019/05/10 10:50   >>

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 4月28日の午前9時過ぎ、壱岐に着きました。博多から高速船で一時間余りです。レンタカーでまず勝本城跡に行きました。今は城山公園になっていますが、石垣などの遺構が残っており、城山稲荷神社も祀られています。説明掲示板には次のように記されています。
 「豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に築城した出城で、国の史跡に指定されています。
 壱岐島の最北端に位置する城山に、松浦鎮信[法印](平戸・壱岐領)が中心となり、有馬晴信(南島原日野江領)、大村喜前(大村領)、五島純玄(五島福江領)などの領主の協力によって、4ヶ月の月日で1591(天正19)年に完成し、朝鮮半島に渡る兵士の兵糧や武器などの補給を行う兵站基地の役割を果たしました。
 現在、城山には御座所を取り囲む石垣や御座所に出入りする枡形の大手門跡など築城時の面影が残っており、天気がいい日には対馬島を望むことができます」」と。
 「御座所」とは、秀吉が朝鮮半島に渡って漢城へ行くまでの道中に、設けられる予定であった宿泊所であり、そのうち勝本の「御座所」作事・普請を命じた、天正19年9月3日付の松浦宛の豊臣秀吉朱印状が、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に掲載されています。
 実際に、朝鮮侵略が始まるのは、その翌年のことですが、早くからその準備が着々と整えられていたことがわかります。ちなみに、名護屋城の普請が開始されたのは、天正19年の10月10日のことであり、名護屋城の普請も急ピッチで進められたこともわかります。
 秀吉も朝鮮半島に行くことに意欲満々だったわけですが、前述したように、結局、秀吉が渡海することはありませんでした。
 勝本城へは、三成も秀吉の代わりに奉行として渡海する際に立ち寄っています。三成らが名護屋を出立したのは、文禄元年6月6日早朝のことであり、その日のうちに壱岐に着いています。三成らは、秀吉が諸将に「朝鮮半島の奥地さらに明国へ侵攻することを要求した」、いわゆる「6月3日令」を携えていました(中野等氏「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」)。しかし、それがうまくいかないことを、三成ら奉行衆が朝鮮半島に渡って、戦いの状況をつぶさに見ることによって知るようになるわけです。秀吉自身も、奉行衆の報告や、海上での敗報を受けて、7月中旬にいたって、6月3日令を凍結し、「朝鮮半島の支配を優先するように指示し」ています。
 われわれは勝本城跡の山頂に登って、海や島が見える展望台に立ち、また石垣のまわりをぐるりと回りましたが、それほど大きな城という感じはしませんでした。
 

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