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zoom RSS 旅行記149 三成の実像2627 壱岐対馬を経て韓国へ8 清水山城登山断念・宗義智と雨森芳洲の墓

<<   作成日時 : 2019/05/12 10:45   >>

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 4月29日朝、対馬のホテルの近くにある清水山城に登る予定でしたが、本格的な雨が降っており、私は危ないので登るのを断念しました。しかし、他の人は、登山に出発して、途中まで登って引き返す人あり、果敢に山頂まで登る人などさまざまでした。もっとも、ホテルに戻った後、入浴して服を着替えたそうですが。雨は1日降り続きました。
 清水山城は、対馬の当主であった宗義智(そうよしとし)が天正19年(1591)に築城したもので、相良長毎、高橋直次、筑紫廣門らが合力しました。
 清水山城は三の丸、二の丸、本丸などから成り立っていますが、一部急斜面になっており、雨が降っている中で、登り下りするのは大変だということですから、登らなかったのは正解でした。もっとも、城跡を見られなかったのは悔いが残りますし、再度対馬に行く機会があれば、是非登ってみたいと思っています。三の丸では、算木積み、鏡積み、横矢桝形などの石積み、二の丸では内桝形虎口、本丸では楕円形に巡らされた石垣、扁平な石の積み上げなどが見られるということです。
 もっとも、対馬の秀吉の「御座所」として計画されたのは、清水城山ではなく、その北に位置する金田城だったと云われています。三成が秀吉の代わりに、奉行として増田長盛・大谷吉継とともに渡海していますが、「御座所」の普請状況などの確認も任務だったのではないかと思われますから、金田城の方に立ち寄ったのではないでしょうか。
 11時にホテルからタクシーをチャーターして、まず近くの宗家の菩提寺である萬松院に行きました。本堂(上の写真)にお参りして、長い階段を登って宗家歴代の墓が立ち並ぶところに行きました。宗家は代々、対馬を治め、それは江戸時代末まで続きました。朝鮮の役の際の、対馬の当主は宗義智でした。小西行長の娘を妻としていましたが、宗も小西も、文禄の役の一番隊に任じられ、朝鮮半島に侵攻していきました。もっとも、小西も宗も、朝鮮国とは貿易をするのをよしと考え、本音は攻めたくなかったと考えられます。それが証拠に、朝鮮半島に渡った後も、講和の道を探っています。それは三成も同様でした。
 宗家は秀吉と朝鮮国との間に立って苦しい立場に置かれていました。国書を偽造して、なんとか事を治めようとしたこともあります。朝鮮半島はすぐ目の前にありますから、朝鮮国とは事を荒立てたくない、波風を立てたくないという宗家の心情はよくわかります。
 次に雨森芳洲の墓にお参りに行きましたが、ここも階段をかなり登らねばなりませんでした。芳洲は近江出身ながら、対馬藩士になり、朝鮮通信使の接待をし、両国の関係改善に努めました。
 
 

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