旅行記150 三成の実像2628 壱岐対馬を経て韓国へ9 対馬の伝・嶋左近の墓

 
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 4月29日の対馬めぐりですが、そば屋で昼食を取った(対州そばと信州そばの両盛りで、味の違いを楽しめました)あと、島左近の墓と伝わるところに行きました。説明掲示板が建っていたので(上の写真)、それに従って雨の降る中、山の中に入って行ったのですが、途中で道が切れており、行く道がわからず、結局引き返しました。時間があれば、探索を続けたのですが、3時には、釜山行きの高速船が出る比田勝港に着かねばならないため、急いでタクシーに戻りました。
 島左近は石田三成の重臣であり、関ヶ原の戦いで亡くなったというのが通説ですが、生き延び対馬に逃れてそこで亡くなったという説があります。それは左近が対馬の出身だという見解に基づくものですが、この見解、及び対馬の島左近の墓については、坂本雅央氏の「平群谷の驍将 嶋左近」(平群史蹟を守る会)の中で紹介され、その説について検証が加えられています。
 左近が対馬の出身及び対馬で死んだというのは、「関ヶ原軍記大全」や「高山公実録」に記述があることが、坂本氏の同書に記されています。 また「地元の『対馬人物志』では、左近は対馬島の出身で父は友保、資性英秀で文武両道に優れ、眉尖刀(なぎなた)と鉄砲術に秀でたとし、『対馬島誌』によると、左近は同島人で八島氏とも伝えられ」ていることも記されています。
 しかし、「対馬島誌」の、友保が「『対馬を出て平群郡西宮に住し、所領一万石をもって筒井氏に仕えた』というのは少し理解しにくい」と指摘され、その根拠として、「当時の大和の国情を考えると、他国者に一万石の領地を与えて抱えることなど、まずありえないのである。(参考 当時の筒井氏の所領は最大で約6万石)」ということが挙げられています。
 坂本氏の同書では、左近が近江出身であることも検証され、この説も無理があると論じられ、左近は大和の平群谷の出身であるとするのが妥当だと結論付けられています。
 左近が戦死したのか、逃げ延びたのかということについては、坂本氏の同書では、関ヶ原の戦いで戸川勢に討ち取られたという説が唱えられています。
 私も嶋左近が対馬で亡くなったことについても懐疑的なのですが、左近の墓と伝わる場所まで来ることができ、感慨深いものがあります。
 船の出航は四時過ぎで、予約していたものの、切符を買わねばならず(65歳以上の割引がありました)、出国手続きもあり、早めに到着したのですが、乗船を待っている人々で賑わっていました。
 

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