旅行記154 三成の実像2632 壱岐対馬を経て韓国へ13 長門浦倭城の独立した曲輪群

 
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 4月30日、釜山西方の倭城めぐりをしましたが、熊川倭城のあと、途中で倭城ガイドの植本友里さんお勧めの店で韓国冷麺を食べてから(日本人観光客はほとんど来ない店で、落ち着いて味わうことができました)、巨済島にある長門浦倭城へ行きました。
 文禄2年に築かれたもので、築城者や城主についてはいろいろな説があります。「蜂須賀家政・生駒親正が築城し交代守備したしたとする説、福島正則・戸田勝重・長宗我部元親が築城し交代守備したとする説、福島正則・戸田勝重が築城し生駒親正・長宗我部元親等が守備したとする説などがある」と、織豊期城郭研究会編の「倭城を歩く」(サンライズ出版)に記されています。
 この倭城の特徴は、山上曲輪群と山腹曲輪群が独立して存在していることです。今はその間に車道が走っており、目の前に、山腹曲輪群の石垣が階段上に並んでいるのが見えます。こちらの方は道もあって登りやすく、遺構も確認できたのですが、山上曲輪群は車道の反対側にあり、車道からは見えず、山の斜面を登らねばなりませんでした。植本さんの先導、案内がなければ、たどり着けないような場所でした。山頂には石垣などの遺構が残っていました(上の写真)。
 山上曲輪群と山腹曲輪群が独立している意味について、「倭城を歩く」には、次のように記されています。
 「個別の曲輪が占拠されても残された曲輪で迎撃し籠城を維持するなどの戦略的使用を第一義的に考慮したものと考えられている。さらにそれを裏付けるものとして、山上・山腹曲輪群ともに長木湾とは反対側に天守台・櫓台が設けられている点にも注目したい。これは天守が城郭内の攻防において要に位置し、軍事上の最終ラインにあったことを示唆するものであり、日本の近世城郭とは異なった築城思想が見て取れる」と。
 山上曲輪群と山腹曲輪群とは、築城者や在番者が違っていたのかもしれません。
 巨済島には、北から永登浦倭城、松真浦倭城、長門浦倭城などがありましたが、これらの三つの城とも日本が明との講和交渉を整えている間も、在番体制が取られた城です。この時、日本に帰国した兵たちの数は5万人に及びますが、朝鮮半島に残らざるをえなかった兵も少なくありませんでした。
 中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)には、「朝鮮半島における在番の状況」が表にして掲載されていますが、「朝鮮都引き取り、城々在番の事」(『豊公遺文』)をもとにしています。それによると、長門浦倭城に在番した武将について、「蜂須賀家政ら四国勢」と記されています。
 三成は、文禄2年、日本に引き上げる際、倭城の巡検に回っていますから、長門浦倭城にも足を運んだ可能性もあります。




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