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zoom RSS 旅行記155 三成の実像2633 壱岐対馬を経て韓国へ14 島津氏が使用していた旧永登城

<<   作成日時 : 2019/05/18 11:03   >>

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 4月30日の釜山西方の倭城めぐりですが、巨済島にある長門浦倭城を訪ねた後、やはり巨済島にある旧永登城跡へ行きました。島津義弘・忠恒親子が築いた永登浦倭城の山裾にあります。永登浦倭城まで登りたかったのですが、時間的に 無理だったので、旧永登城跡を訪ねたのを最後に、釜山のホテルまで引き返しました。旧永登城は、朝鮮側が築いた城ですが、文禄・慶長の役では、日本側が占領して、使用していました。このことについて、織豊期城郭研究会編「倭城を歩く」(サンライズ出版)の「永登浦城」の説明の中で、次のように記されています。
 「この城の北側山麓には集落があり、豊臣軍の築城前から邑城が構えられていた。この中にも日本式城郭に用いられた石垣を確認することができる。山上の永登浦城築城に際して、物資補給を目的とした海岸線の確保のため、邑城を接収する形で、中心部を日本式に改めて拠点化を図ったものと考えられる」と。
 旧永登城のあたりは、ところどころに民家が建つ田園地帯といった趣きですが、確かに石垣は少し残っています。倭城ガイドの植本友里さんによると、民家にある石垣は島津氏の造ったものだそうです。もっとも、何年か前に石垣を固めてしまったために、当時のままではなくなっていますが(上の写真)。
 島津義弘・忠恒が永登浦倭城に在番していたのは文禄の役の時のことで、慶長の役の際には泗川倭城に在番しました。泗川倭城跡は、17年前に訪ねましたが、その時のことは当時拙ホームぺージの記事に書いていたものを、3月5日付の拙ブログ記事に再掲載しました。
 その時の記事にも書いたことですが、泗川城跡には、船津里城の碑や忠霊碑が建っており、一帯は公園化されていましたが、今はどうなっているのでしょう。その時はところどころに石垣が残っており、九州式の縄張りであることがうかがえました。
 有名な泗川の戦いは1598年9月から10月にかけて行われ、島津軍が明・朝鮮軍相手に、この倭城で奮戦し勝利し、明・朝鮮軍は撤退を余儀なくされます。この時すでに秀吉はなくなっており、日本への撤退命令が、この戦いのすぐ後に届き、島津隊は泗川城を捨てて巨済島に移動しますが、小西行長が順天倭城に釘付けになっていると聞き、救出するために順天倭城に向かいます。露梁津で両軍は激突し、壮絶な海戦が展開されます。双方ともに多大の犠牲がでますが、この戦いの間に、行長は撤退することができ、帰国します。これも、島津軍のおかげです。
 泗川倭城は、巨済島から海を挟んで50キロほど西にありますが、明・朝鮮軍は蔚山倭城、泗川倭城、順天倭城の三方向を攻めています。その時、清正が敵が攻めてきていることを伏見に知らせてきますが、泗川も攻められていることは清正自身も知りませんてでした。その知らせに、増田長盛は島津勢に泗川から巨済島まで撤退するように命じていますが、賢明な判断だったと思われます。むろん、その時には泗川城攻めは始まっていたのですが。このことは高橋陽介氏の「慶長4年1月3日付島津龍伯をどどのようにとらえるか」の中で言及されていますが、この点については後述します。

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