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zoom RSS 旅行記157 三成の実像2635 壱岐対馬を経て韓国へ16 釜山子城台倭城

<<   作成日時 : 2019/05/20 10:50   >>

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令和最初の日の5月1日の釜山東方の倭城めぐりは、最初に釜山駅の北東に位置する釜山子城台倭城に行きました。今は公園化されていますが、周囲に石垣などが数多く残っています。市民憩いの場所になっており、ウォーキングする人、健康器具を使っている人もいました。
 山頂(丘の上)が本丸跡ですが、それをしのぶものはなく、鎮南台などが建っており(上の写真)、そのそばに、「釜山鎮支城」の説明掲示板があり、次のように記されています。
 「子城台(ジャソンデ)とも呼ぶ。
 現在残っている城跡は1593(宣祖26)の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時、日本軍が駐屯するため毛利輝元が釜山鎮の支城として築城した日本式である。しかし、本来、韓国釜山鎮城の外城があったという説もある。子城台と呼ばれ始めたのは、釜山鎮城が『母』の城であり、ここはその『子』の城だからという説もある。また、山頂に『子城』が作られ、将台(将軍が立って指揮を執った台)として使われたためだという説もある。壬辰倭乱の後、再び修復され、釜山鎮僉使営として使われた。日本の植民地時代、市街地整備計画により城は撤去され、その際、子城台一帯の海面が埋め立てられたため、以前の姿はなくなってしまった。
 残っている城地は2段であり、城壁の高さは最高10m、最低1.5mである。城壁は斜めに傾いて下から上までねじのような形となっており、上に行くに従って、窄んでいる。
 日本式城を研究する上で欠かせない資料である。現在、1974年に始めた遺跡整備作業により、新建された東門の鎮東門、西門の金塁閣、将台の鎮南台が復元されている。また明朝の将軍、千萬里の子孫が建てた『千萬里将軍記念碑』と、高麗の末、倭寇討伐に多くの功をあげた『崔宮将軍碑閣』が保存されている」と。
 釜山子城台倭城の築城者については、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)の中では、毛利秀元等と記されています。また同書では、李舜臣が見た、子城台倭城の様子について、次のように記されています。
 「突入した李舜臣の目に、築地塀を巡らし、重層で漆喰塗りの仏殿のような建物(天守)を持つ城郭が飛び込んだ。『釜山鎮城の官舎はみな撤去され、土造の家を築き、巣穴と成すもの、百余戸の多きに達する。城外の東西山麓は閭閻【りょえん】(里門=卑しい門)櫛比【しっぴ】し(櫛の歯のようにたくさん建ち)、壁を連ね家屋を接するもの、三百余家ある。みな倭人自ら作った家である』とし、仏殿のような建物云々はこの後に記されている」と。
 日本軍が朝鮮国の建物を壊して、自分たちの家や屋敷を建てた事がよくわかります。三成は文禄2年、帰国する前に釜山付近の倭城の検分に回っていますから、この倭城に立ち寄った可能性もあります。 
 

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