旅行記158 三成の実像2636 壱岐対馬を経て韓国へ17 毛利輝元が築城した釜山倭城(母城)

 5月1日の釜山東方の倭城めぐりは、釜山駅の北東に位置する釜山子城台倭城に訪ねた後、すぐ近くにある釜山倭城(母城)へ行きました。ここは今は体育公園になっており、テニスコートもありますし、やはり健康器具などもあります。しかし、周囲のところどころに石垣などが数多く残っています。毛利輝元が築城した倭城です。ここも今回、初めて訪ねました。釜山子城台倭城や市内を一望できるスポットにも、倭城ガイドの植本友里さんに案内してもらいました。
 毛利輝元は文禄の役で渡海する時、七番隊を務め、三万人の軍勢を率いていました。中野等氏の「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日以前)」【藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』〈思文閣出版〉所収】)によれば、輝元が釜山に上陸したのは文禄元年4月19日のことです。輝元はその後、進軍しますが、5月「16日星山の渡河地付近で発病」したものの、進軍を続け、6月「12日善山から開寧に移動し、ここから慶尚道経略を指揮」します。「その後病状が悪化。11月頃曲直瀬正紹の診療をうける。年内はやや回復に向かうが、未だ全快にはいたらず、引き続き開寧にとどまりここで越年」
 翌年2月「24日漢城から下向した安国寺恵瓊とともに開寧を退く。善山を経由して28日に釜山に到着」。この後、輝元は釜山倭城の普請に取り組みます。そして、「秀吉が名護屋から大坂へ戻ると、輝元も帰還を決意し、8月(時日未詳)秀元に後事を託して日本に戻り、23日には広島へ帰城している」、「帰国後は湯治を行って鋭意療養に努めた」などと。
 輝元の病が回復するまで随分月日がかかったことがわかりますが、三成が朝鮮半島で輝元と接点があったとするなら、釜山においてであったでしょう。三成は文禄元年6月6日に名護屋から渡海し、漢城に到着したのが7月16日ですから、輝元のいる慶尚道に立ち寄っている余裕はなかったと思われます。三成は漢城で越年し、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加し、その後、三成らは明使に同行し、5月6日までには釜山に到着しています。三成らは明使を名護屋まで案内し、5月24日に朝鮮に戻り、熊川倭城などを訪問していますから、釜山倭城の輝元もこの時期に訪ねた可能性もあります。この後、三成らは明使を迎えに再び名護屋に戻り、また釜山に戻ってきます。三成は釜山で諸将にさまざまな指示を与えていますから、この時期にも輝元に会ったかもしれません。三成が名護屋にみたび名護屋に戻ってきたのは9月23日で、それ以降、朝鮮半島に戻ることはありませんでした。輝元が日本に戻って、約1ヶ月してから三成は戻ってきたことになります。

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