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zoom RSS 旅行記159 三成の実像2637 壱岐対馬を経て韓国へ18 加藤清正が築いた西生浦倭城

<<   作成日時 : 2019/05/22 17:44   >>

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 釜山の倭城めぐり2日目は、釜山子城台跡、釜山母城跡をめぐった後、石焼ビビンバで昼食を取り、釜山の北東の西生浦倭城跡へ行きました。
 西生浦倭城は、17年前に訪れていますが、西の熊川倭城と並んで、大規模な城跡です。築城したのは、加藤清正です。前回と違って、整備が随分進んでいるという印象を受けました。パンフレットを入口の案内所でもらいましたし、各所には説明掲示板が建っており、石垣の修復も行われていました。韓国の人々もたくさん登っていました。大手口、虎口、曲輪、本丸、天守台、馬出し曲輪などいろいろと遺構が残っており、見応えがあり、、城の構造がよくわかりました。
パンフレットには、西生浦倭城に関して次のようなことが記されています。
 「(前略)回夜江の河口に程近い小さな浦を抱えた海抜高度133mの山頂に本城を築き、その東側の傾斜面を利用して複雑な構造の2段、3段の副郭を置き、それより山の麓まで続く外城を配置した。城壁の外側には二重、三重の堀を回した。
 城を含む城郭内部の広さは46000坪近く、堀を除くお城の回りの長さは約2.5km、東西と南北の長さは、各約870mと370mに達しており、韓国の南海岸の各地に散在する倭城の中で最も規模が大きい。
 現在、山頂には高さ約5mの天守台の跡があり、お城の内外部からは多数の井の跡が確認された。城壁の場合、外城は外側のみを石積にし、内城は城壁の両面を石で築いた。城壁の地面からの角度は60度程度である。
 1594年(宣祖27年)からは朝鮮の四溟大師がこのお城で四回に亘って終戦交渉をし多くの外交的成果を上げた。1598年(宣祖31年)には明軍の指揮官である麻貴の力を借りてお城を取り戻し、その1年後には日本軍との戦いで戦死した、朝鮮の忠臣を祀るため蒼表祠を建てた。以後破壊されたが、2016年に復元された。西生浦倭城は壬辰倭乱の直後から1895年までの約300年間朝鮮水軍の兵営として使われ、同節度使が指揮をとっていた」と。
 倭城の遺構が比較的よく残っているのは、文禄・慶長の役の後、朝鮮水軍の兵営として使われたからだと思われます。防御施設として、朝鮮側が倭城を有効利用したわけです。文中、「四溟大師」とあるのは、「松雲大師」のことで、清正との交流については、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」の中でも、次のように記されています。
 「朝鮮側から派遣された松雲大師は文禄3年4月、清正が在陣していた西生浦倭城を訪問。清正側の通訳兼外交官だった本妙寺(現熊本市)の僧、日真(にっしん)を通じて数回会談している」と。
 清正は、小西行長とは別ルートで和平交渉をしていました。

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