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zoom RSS 旅行記161 三成の実像2639 壱岐対馬を経て韓国へ20 三成が来た時には焼けていた景福宮

<<   作成日時 : 2019/05/24 12:02   >>

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 釜山の倭城めぐり2日目、釜山子城台跡、釜山母城跡、北東の西生浦倭城跡、蔚山倭城へ行った後、蔚山駅から今度は韓国高速鉄道(KTX)でソウルに向かいました。所要時間は2時間20分でした。そこから地下鉄に乗り換え、東大門にあるホテルに着いたのは8時半でした。夕食は駅で買った巻き寿司を車内で食べて済ませました。もっとも、ホテルに着いて荷物を置いてから、ロビーで生マッコリ一瓶を三人で飲みました。今回の旅行で、マッコリを飲むのは最初で最後でした。口当たりがよく、疲れも吹っ飛ぶ思いがしました。
 次の日は、ワゴン車をチャーターして、まず景福宮に行きました。景福宮は、朝鮮王朝の最高位の宮殿である法宮として建てられましたが、文禄の役の時に全焼しました。1867年に再建されましたが、日本の植民地時代に、取り壊されてしまいました。本格的な復元事業が始まったのは、1990年からです(上の写真は景福宮の正殿である勤政殿で、国王の即位の礼・朝会・科挙試験・外国からの使節の謁見など、国の公式行事が行われた場所です)。
 観光客で大いに賑わっており、チマチョゴリを着たり王朝時代の扮装をしたりしている人々も多く見かけました。
 景福宮などの宮殿が文禄の役の時に焼けたのは、日本軍が放火したからではなく、朝鮮民衆たちによってでした。日本軍が攻め寄せてくるというので、国王の宣祖(ソンジョ)たちが漢城(ソウル)から逃げ出し、民衆の暴動が起こったためです。むろん、それで日本側の侵略の罪が消えるわけではありませんが。
日本軍が漢城に入ったのは、文禄元年5月3日のことでした。小西行長らは東大門から、加藤清正らは南大門から入りましたが、その時、すでに景福宮などは焼失していたわけです。秀吉の代わりに、奉行として渡海した増田長盛・大谷吉継・石田三成が漢城に入城したのは、7月16日のことです。この後、三成らは漢城にいて、秀吉の軍令を諸将に伝えるなど政務に取り組みますが、翌年1月26日には、碧蹄館の戦いに参加し、勝利します。次いで、2月26日には、幸州城を攻めますが、大敗して、三成も負傷します。その後、4月中旬まで三成は漢城にとどまっています。日本側は明使を受け入れることで、漢城からの撤退を開始します。三成も漢城を出て、増田長盛・大谷吉継・小西行長と共に明使に同行し、釜山を経て名護屋に行くわけです。
 つまり、三成が漢城にいたのは、約9ヶ月です。三成の漢城での陣所は、南山の山麓の明礼洞にありました。現在の明洞に当たり、今は繁華街になっています。今は当時を思わせるものは何も残っていまいものの、時間があれば、足を運びたかったのですが、その余裕はありませんでした。明礼洞は、景福宮から見て、東南の位置に当たります。三成が来た時には、景福宮などは焼失していたたわけですが、荒廃した都の姿を見て何を思ったでしょう。無謀な戦いに心を痛めていたのかもしれません。

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