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zoom RSS 三成の実像2645 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」16

<<   作成日時 : 2019/05/30 09:24   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、D「慶長3年10月1日、島津忠恒は董一元ひきいる中路軍を撃退した」の中で、泗川の戦いの状況を報告した、慶長3年10月14日付の石田三成宛て島津義弘書状が取り上げられていることは前述しましたが、その中で、三成におうかかいを立てたり、理解を求めたりして相当気を遣っていることがよくわかるところを列挙します。
 「われわれ島津家のものたちは上方での作法の分からない田舎者ですので、こちらでの働きは上方では埋まれてしまうのではないかと心配しています。あなた石田三成様はこのことを分かってください」
 「島津忠恒については数年間朝鮮に在陣し、領国である薩摩の内政もみることもできていませんので、帰国するのがしかるべきかと思います。わたくし島津義弘については、あなた石田三成様のお役に立つこともあるでしょうから、このたびはこちらからそちらへ参上し、指示にしたがうつもりです」
 「このたび上洛するにあたっては、いつもの人数でよろしいでしょうか。あるいは、どれぐらいか人数を増やして連れて行ったほうがよろしいでしょうか。ご指南していただいたとおりにいたします」
 「昨日10月13日に、こちら泗川へ龍涯(=史世用)という明人がやってきて言うには、和平交渉をしたいとのことでした。ちょうどその時、寺沢正成と小西行長が居合わせましたので、龍涯と会って話をされました。くわしいことは寺沢正成と小西行長から報告があるでしょう。使者にもおおまかなことを申し含めましたので、お聞きください。おって、ご指示を受けたいと思います。恐惶謹言。
 なお、銀子三枚を使者に持たせました。あまりにも些少ではありますが、何かのお足しにしてください」などと。
 泗川の戦いの勝利が上方まで伝わらないのではないかと危惧し、三成に知らせることによって、伏見の政権の中枢にまで今回の手柄が届くるように依頼しているわけです。
 島津忠恒の帰国を求めていますが、結果的に、三成は義弘の願いに反して、忠恒を上方に連れて行くことになります。この三成の判断について、高橋氏の同書では、「島津家の指南役として、島津忠恒を徳川家康に引き合わせるためであると考えられます」、「石田三成はあらためて泗川における戦功を、その当事者である島津忠恒とともに報告する必要がありました」と指摘されています。この時点で、三成と家康は対立していなかったとするのが、高橋氏の見解ですが、この点については、私も同意見です。
 文中で寺沢正成の名が出てきますが、この後、小西行長が順天で孤立した際、島津らに援軍を派遣することを命じたのは寺沢であるということも、高橋氏の同書で指摘されています。

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