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zoom RSS 三成の実像2646 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」17

<<   作成日時 : 2019/05/31 11:09   >>

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  高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、D「慶長3年10月1日、島津忠恒は董一元ひきいる中路軍を撃退した」の中で、泗川の戦いの状況を記した、慶長3年10月6日付で、島津龍伯の側近に宛てた島津家家臣の竹内実吉書状、同月22日付で6人の島津家家臣宛て島津忠恒書状なども取り上げられ、次のようにまとめられています。
 「明軍は和平交渉をたがえ、10月1日、大軍勢で泗川新城へ攻め寄せてきました。同日の10時ごろ戦闘開始、12時ごろ、島津忠恒の命令で島津軍は城から打ち出し、明軍を突き崩しました。明軍は晋州まで敗走しました。島津軍は晋州の前面の川(南江)をかぎりに追撃し、敵首3万8百あまりを討ち取りました。このとき島津義弘自身も敵を五人討ち取り、島津忠恒自身も敵を四人討ち取りました。
 10月10日の6時ごろ、島津義弘は立花親成・宗吉智・寺沢正成らと相談して順天を包囲している明水軍に攻撃をしかけようとしましたが、明水軍はすでに10月9日の夜には順天の包囲をといて撤退していました。島津忠恒は逃げ遅れた番船一、二艘を焼き払いました」と。
 高橋氏の註によると、「このあと順天はふたたび海上封鎖されます」とあり、その救援に赴いた島津らの日本軍と明・朝鮮軍が露梁海戦を行なうことになるわけです。
 前述したように慶長3年10月14日付の石田三成宛て島津義弘書状の中で、 「昨日10月13日に、こちら泗川へ龍涯(=史世用)という明人がやってきて言うには、和平交渉をしたいとのことでした。ちょうどその時、寺沢正成と小西行長が居合わせましたので、龍涯と会って話をされました。くわしいことは寺沢正成と小西行長から報告があるでしょう」などということが記されていますが、このことについて、高橋氏の註に次のように記されています。
 「このとき、豊臣秀吉が任命した七人の目付のうち、三人は罷免され、のこる四人は領国である豊後に在国していました。朝鮮における目付役は寺沢正成一人が行なっていました」と。
 七人の目付とは、毛利重政、竹中隆重、垣見一直、毛利友重、早川長政、熊谷直盛、福原長堯で、総大将格の小早川秀秋に付けられた太田一吉を加えると八人になります。罷免されたのは、竹中、毛利友重、早川 の三人で、秀吉の命に背いて戦線の縮小に同意したことが問題視されました。彼らを糾弾したのは、同じ目付の垣見、熊谷、福原で、三人は慶長3年5月2日に秀吉に拝謁し、そのことを報告します。蔚山城籠城戦の際、敵を追撃しなかった蜂須賀家政や黒田長政も糾弾されました。熊谷、福原は三成の縁者であったため、秀吉の死後、糾弾された者たちの矛先が三成に向かうことになりますが、奉行としての役目上、三成は福原らをかばうことになったとはいえ、内心では、現地の諸将の行動もやむをえないと理解を示していたのではないでしょうか。もともと、三成はこの戦争に反対の立場でした。

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