関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2647 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」18

<<   作成日時 : 2019/06/01 10:46   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、E「慶長3年10月14日、島津龍伯は近衛邸の連歌会に参加した」の中で、「鹿児島県史料 旧記雑録後編三」にある記述を史料に挙げて、次のように解説されています。
 「慶長3年10月14日、島津龍伯は近衛信尹の依頼をうけ、京都・近衛邸でおこなわれた連歌会に参加し、発句を作りました。連歌会で島津龍伯の句は九句選ばれました。
 また、同日、近衛龍山らとともに、『かすかたいみやうしむ(春日大明神)』を頭文字にした十首を作りました。春日大社は藤原氏の氏神にあたります。
 近衛信尹は文禄3年(1594)4月、肥前名護屋を訪問したさい、豊臣秀吉を激怒させ、薩摩へ追放されたことがあります。慶長元年(1596)に帰洛がゆるされるまで、島津龍伯あずかりとなり、鹿児島で蟄居していました」と。
 近衛信尹は近衛龍山(前久)の子ですが、秀吉は前久の猶子になることによって、関白職を継ぐことができましたが、信尹は関白の道を閉ざされました。信尹が名護屋に赴いて、後陽成天皇や秀吉の怒りを買ったのは、信尹が渡海すると言い出したからです。信尹は関ヶ原の戦いの際には、島津家の家臣らをかくまったりもしていますが、戦後、家康と島津家との仲介役を果たし、念願の関白にもなっています。
 さて、この同じ10月14日に、高橋氏の同書に記されていたように、島津義弘は泗川の戦いの勝利を告げる書状を三成に送っています。また小西行長も、10月10日付で、増田長盛・石田三成に宛てて書状を送り、順天の戦い、泗川の戦いの勝利を告げています。この書状は中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)で取り上げられていますが、その中で次のように解説されています。
 「このような軍事的優勢という状況を踏まえ、小西行長は和平にむけた独自の展望を述べていく。和平成立は軍勢撤退の必須的な前提だが、秀吉が朝鮮国王の王子来日を執拗に要求したことが、和平交渉不調の要因であると、小西行長は認識していた。ところが、今回の和平案では、人質要求に代えて朝鮮が御調物(貢ぎ物)を出せば良し、と妥協がなされたので、小西行長も今回は和平の成立も可能であろうとしている。あわせて軍勢の撤退を保証し、さらに日本の名誉をまもるためにも、日本勢が構築した各地の要害(いわゆる『倭城』)については是非共に残置すべきと主張する」と。
 この時点では、行長も撤退を楽観的に考えていたことがわかりますが、実際、この後、行長のいる順天倭城は再び海上封鎖され、一時は窮地に陥ります。

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