三成の実像2656 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」27

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その後の、博多にいた三成の行動について、次のように述べられています。
 「11月23日、石田三成は薩摩・大隅の蔵入地代官らへ、蔵入れ米の徴収について、二十か条にわたる条目をさだめ、こまかく指示しました。石田三成は筑前博多在陣中に、『朝鮮からの撤退』、『島津家領国の財政立て直し』の二つの問題に対処していました」と。
 この11月23日付の三成書状の内容について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、具体的に記されています。
 すなわち、「蔵入地代官を任された家臣が規定水準の物成(ものなり)を収められない場合は、知行地の差し押さえといった強硬手段に訴えるべきことや、京都借銀の弁済方法、さらに薩隅に設定された秀吉の蔵入地から百姓が頻々と逃散している事態をうけ、島津領内での人身売買を厳しく取り締まることなどを、かなり具体的かつ事細やかに指示している。なお、この書状には、島津勢が本来10月10日、11日頃に朝鮮を発する予定であったが、順天城にいた小西行長らが襲われ、その救援に向かったため帰還が遅れている事情も記されており、三成は気遣いを見せている」と。
 三成が「島津家領国の財政立て直し」にいかに心を砕いているかがわかりますが、そのために強硬策を取るように促すなど、かなりいらいらしていることもうかがえます。蔵入地からの収入は、豊臣政権の財政にも大きく関わることでしたから、三成は神経をとがらせたはずですし、島津家全体の財政健全化がうまくいかないことに業を煮やしていたに違いありません。
 高橋氏の同書には、「『朝鮮からの撤退』、『島津家領国の財政立て直し』の二つの問題に対処していました」と記されていますが、拙ブログで前述したように、三成は島津家だけでなく、西国地域にもさまざまな指示を与えていることが、中野氏の同書で指摘されています。
 11月23日付の三成書状に24日付の三成家臣の八十島助左衛門射書状が添えられていますが、この点について、中野氏の同書では「博多津中とのやりとりも、八十島助左衛門尉を通じたものであったことを踏まえると、三成がこのたびの筑前下向に際して伴ってきた家中のなかでは、この八十島助左衛門尉が最上席に位置するようである」ということも指摘されています。

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