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zoom RSS 三成の実像2657 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」28

<<   作成日時 : 2019/06/11 11:55   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、H「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、同日付で島津義弘・島津忠恒に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大老連署状、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署状が史料として取り上げられていますが、これらの連署状の内容について、次のように解説されています。
 「11月3日、五人の年寄(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と三人の奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)は、島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価しました。それは、『10月1日、泗川へ攻め寄せてきた明軍20万をことごとく討ち果たした』とするもので、またその戦果により、蔚山・順天を包囲していた明軍が撤退したこともあわせて評価されました」と。
これらの書状が出されていることから見ても、五大老・五奉行制が機能していたと云えるのではないでしょうか。五奉行のうち、浅野長政と石田三成は博多に下向していましたから、名前がないのは当然ですが、後の八名は全員名を連ねているわけです。決して家康一人の意向で物事は決められたり進められたりしてはいないことを物語っている気がします。
 蔚山に押し寄せた明軍の人数については、五大老連署状では触れられていませんが、三奉行連署状では「三万人」と記されているものの、9月27日付加藤清正書状では「八万人」と記されていることも、高橋氏の同書で指摘されています。「また、加藤清正が蔚山方面へ攻め寄せてきた明軍を退けたことは評価の対象になりませんでした」とも記されています。
 島津義弘・島津忠恒は泗川の戦いで三万人余りの敵を討ち取りましたから、格段の働きだったわけで、清正が敵を退けたことを評価されなかったのは無理ないと云えるかもしれません。もっとも、清正がこのことに納得していたのか、不満を持っていたのかは判然としません。
 清正と云えば、秀吉生前中の、慶長2年末から翌年初めにかけて、蔚山城籠城戦が起こり、日本の援軍が来るまで加藤清正が二週間、敵に包囲されて耐え忍びましたが、餓死者や凍死者が続出しました。このことに関して、秀吉はそれを褒めたたえる朱印状を出していますが、それ以上の恩賞はありませんでした。このことに関しては清正は不満を持ったかもしれず、こういうことが豊臣政権への不信感となって、それが関ヶ原の戦いの動向にもつながった可能性もあります。このあたりはさらに検討を加える必要がありますが。
 

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