三成の実像2658 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」29

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑨「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、慶長3年11月5日付の島津家家臣の山田理安宛島津龍伯書状が取り上げられていますが、その書状には、泗川の島津義弘からの報告の内容が書き写されており、その部分について次のように現代語訳されています。
 「一、先の書状でおおむね報告しましたが、そのときはいそがしさに取り紛れ、くわしいことが書けませんでした。
 この城(泗川新城)へ敵が攻め寄せてきたとき、大手口から一匹の白い狐が敵に向かって走って行き、そのタイミングで敵へ攻撃を開始しました。
 また、水の手口から赤い狐が二匹、敵に向かって走って行き、そのうち一匹が戦死しました。
本当に、本当に、かつて聞いたこともない不思議な出来事でした。
 朝鮮にいる間、こちらで狐を目にしたことは一度もありません。それなのに、このたび開戦と同時にあらわれたことは、申すにはばかれることですが、『御神慮』であるとしか思われません。
  このたび大勝利を得たことは、すこしもわたくし島津義弘の力量によるものではありません。いよいよ、今まで以上に神仏をあがめなければなりません」と。
 この時代の人々の神仏に対する信心深さがよくうかがえます。島津龍伯はこの書状で「富隈の稲荷神社にあつく謝礼するように指示」していますが、11月6日付の島津義弘・島津忠恒宛ての島津龍伯書状も史料として取り上げられ、「鹿児島の稲荷神社、京都の稲荷神社へも謝礼し、さらに祈願を依頼しました」という内容が紹介されています。。
 「京都の稲荷神社」とは、伏見稲荷社のことで、宇喜多秀家夫人の豪姫が産後病気になった時に、秀吉は伏見稲荷社に豪姫の狐落としを命じる朱印状を発していることが有名です。大西泰正氏の「『大老』宇喜多秀家とその家臣団」(岩田書院)の中で、朱印状の副状である、(文禄4年)10月20日付稲荷社人中宛石田三成・増田長盛連署状が史料として取り上げられ、その内容について次のように説明されています。
 「秀吉は朱印状をもって伏見稲荷社に対し、豪姫の野狐落しを命じるとともに、彼女に万一のことがあれば、稲荷社は即刻破却し、連年狐狩りを行う旨を通達している」と。
 これは秀吉が神仏に対しても脅しをかけるような傲慢な内容で、島津氏の姿勢とは大きく異なります。もっとも、この場合、島津氏は狐の加護を受けたことに感謝しているのに対して、秀吉の場合はまだ加護を受けていない状況であり、同列に論じることはできません。すでに秀吉はこれ以前に母の大政所の病気平癒のために伏見稲荷社に祈願しており、病気が治ったことで、稲荷社に寄進し、楼門などを建立していますから、伏見稲荷社とは特別な関係にあったために、このような過激なことも云えたのもかもしれません。

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