三成の実像2653 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」24

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑦「慶長3年10月30日、島津義弘らは朝鮮からの撤退を決意した」の中で、10月30日付で小西行長・立花親成・宗吉智・島津義弘が署名した「覚」が史料として掲載されていることは前述しましたが、その決定の知らせについて、次のように説明されています。
 「これらの決定事項は、11月4日までに、目付の寺沢正成に報告されました。
 11月11日、島津義弘は小西行長と相談して撤退の日時を決め、固城の立花親成にも知らせました」と。
 前者の史料として、11月4日付の寺沢正成書状、後者の史料として、11月11日付の立花親成書状が取り上げられています。
 ⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されています。まず、連署状では、まず次のように記されています。
 「徳永寿昌と宮木豊盛は、今日11月2日、筑前名島へ着岸し、わたくしたち石田三成・浅野長政は状況報告をうけました」と。
 このことを裏付ける史料として、11月3日付の徳永寿昌・宮木豊盛書状が挙げられています。この浅野長政・石田三成連署状については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で少し触れられ、「在朝鮮の諸将に対してかなり具体的な指示を発している」と記されています。
 その長政・三成連署状の一条目・二条目は次の通りです。
 「一、このたび明軍が諸城へ大軍勢で攻め寄せてきましたが、すべての方面で大勝利し、敵が逃げ帰ったことは、すばらしいことです。あなたたち島津義弘・島津忠恒父子の手柄についても徳永寿昌・宮木豊盛らから報告をうけました。ほめる言葉もみつからないほどすばらしいことです。
  一、さきに年寄衆・奉行衆が相談して、徳永寿昌・宮木豊盛ら二人の見回を渡海させたときに指示したことは、その後、明軍が大敗北して撤退し、いよいよ諸城を放棄して帰朝することが容易になりましたので、あなたたちについても諸城の城主と相談して、同時に帰朝してください。このことを全員に通達するように」と。
 この連署状の一条目、二条目について、高橋氏の同書では、「泗川の島津義弘・島津忠恒らへの評価です」と記されています。確かにその通りですが、私が注目したのは、「年寄衆・奉行衆が相談して」という文言で、五大老五奉行制が機能していた証になるのではないでしょうか。

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