石田三成の実像2654 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」25

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その三条目、四条目は次の通りです。
 「一、いま述べたように諸城を放棄して帰朝しようとすれば、きっと明軍がふたたびいずれかの城へ攻め寄せてくることもあるでしょう。その場合、帰朝が困難なようであれば、来年慶長4年の3月まで、諸城をすべて持ちこたえるように。
  一、明軍が攻め寄せてきて、慶長4年3月まで帰朝を延期することになった場合、すぐにこちらへ報告するように。その場合、まずわたくしたち石田三成・浅野長政が渡海し、おって人数を渡海させるよう対応します」と。
 五条目(これについは後述します)も含めて、「石田三成は、釜山浦の寺沢正成・毛利吉成らへ、朝鮮からの撤退のしかたについて、あらゆる場合を想定し、こまかく指示しました」と解説されています。三成のきめ細かさがうかがえる内容です。
 実際には、慶長3年12月までに日本軍は朝鮮半島から撤兵できたわけですが、場合によっては、翌年3月まで撤兵を延期することも想定してことがわかります。 
 二条目に、「石田三成・浅野長政が渡海し」という文言があるように、事態によっては朝鮮半島に渡ることも考えていたわけです。三成も浅野長政も文禄の役の際は、渡海していますから、朝鮮半島の地理や情勢に詳しかったので、うまく対処したはずですが、結果的に、朝鮮からの撤兵に関して、渡海することはありませんでした。
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、博多にいる三成が撤兵の仕事だけでなく、西国の諸地域に下した指示の一つとして、次のようなことが記されています。
 「博多津中に対しては、改めて津内が領主権力の及ばない地域であることを確認している。これは先だって6月に下向した折に、博多津内からうけた諸々の陳情に対するものだが、三成は家中の八十島助左衛門尉を通じて『博多津中』に回答を行なっている」と。
 「6月の下向」とは、秀吉の死の直前、三成が筑前・筑後の代官として九州へ赴いたことを指しますが、三成が任務を果たしている途中に、秀吉が重態だという知らせが届いて、急いで上方に戻っています。その時の陳情に対する回答を、三成は半年を経て行ったわけです。

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