関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像2655 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」26

<<   作成日時 : 2019/06/09 10:59   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、G「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で在陣諸将宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その五条目は次の通りです。
 「一、日本軍が大勝利をえましたので、明軍から和平交渉を願い出てくるかもしれません。その場合、釜山浦のみを残して諸城を放棄して帰朝し、明軍の使者を、交渉が成立するまで釜山浦にのこすように、そのようにすれば日本が勝利したという面目がたもたれます。
 敵が交渉の途中で約束をたがえて攻めてくることもあるでしょうが、それでも釜山浦にとどまるなどというような軽率な判断をすれば、それは結局日本軍撤退のさまたげになりますので、その場合は、そのタイミングで全員同時に帰朝するように。
 条目をとりかわして、人質を受け取り、確実に和談を成立させられるようならば、他の方面で戦闘が継続していてもそれにもかまわず、和談を成立させるように。その場合、交渉に関与していないものは、早々に帰朝するように。
 釜山浦で明軍の使者と和平交渉をしている間は、加徳島・影島の二か所に人数を配置し、防御を固めておくのがよいでしょう。
 伏見の年寄衆(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)、残っている奉行衆(増田長盛・長束正家・前田玄以)にも確認し、連名で指示したいところですが、伏見とは距離が離れていますので、石田三成・浅野長政ら二人の奉行からこのように指示します。このことを心得ておくように」と。
 この条目について、高橋氏の同書には、「石田三成は釜山浦を確保することを『日本之御じやまニなる儀』とし、朝鮮からの全面撤退を指示しました。石田三成はかねてより、朝鮮攻めには反対の立場でした」と解説されています。
 三成が「朝鮮攻めについては反対の立場」だったことの根拠として、姜の「看羊録」の中に記されている、三成の「六十六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」という言葉が挙げられています。三成が朝鮮攻めに反対だったことは、文禄の役の際、現地の悲惨な状況を見て戦争の継続の不可能性を述べた書状を残していること、和平交渉に積極的に関わってきたことなどからも明らかです。
 
 

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