石田三成の実像2689  大河ドラマ「葵 徳川三代」10 ガラシャ夫人の自刃を聞いて三成が中止命令?

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、三成は挙兵後すぐに大坂城に乗り込んだという描き方がされているために、家康方の武将たちの人質を大坂城に移すことを指示し、7月17日に細川ガラシャ夫人が人質を拒んで自刃したため、人質作戦の中止を命じていました。
 しかし、実際の三成が大坂城に入ったのは7月末と思われますから、ガラシャ夫人が自刃した時には、三成自身は大坂に来ていませんでした。細川家の後世の資料では、三成方が細川屋敷に押し寄せたという描き方になっていますが、この時点で、三成は奉行職に復帰しておらず、大坂にいた三成方軍勢が押し寄せることは考えにくいものがあります。もっとも、三奉行らの要請で三成や正澄の家臣たちが派遣された可能性は否定できませんし、人質作戦を三奉行に要請したのは、三成だったかもしれません。しかし、単純にガラシャ夫人が自刃したのは、三成のせいだったという捉え方は、関ヶ原の戦いの首謀者を三成に仕立てた江戸時代に定着したものと思われます。
 そもそも、人質を取るのは戦国時代から一般的で、秀吉も大名や妻子を大坂や伏見に住まわせていましたし、家康も前田利長に家康暗殺の疑いをかけて利長の母であるまつを江戸城に人質に取っていますから、作戦として特別なことではありませんでした。
 ドラマでは、7月18日に、大坂城で軍議を開き作戦の指示を与えていました。伏見城攻撃軍、田辺城攻撃軍、大坂城で秀頼の補佐に当たる軍、美濃・尾張攻略軍、北陸攻略軍などに分けて。諸将の配置と動員兵力については、真田家の史料として残っていますから、三成が作戦を考えた可能性もあると思われます。ただし、繰り返し述べているように、この7月18日の時点では、三成は大坂城に来ていませんが、書面で大老や三奉行に作戦計画を知らせていたかもしれません。ちなみに、この7月18日に三成は豊国社に参詣しています。三成を含めた軍議は7月末か8月初めに行われたものと思われますし、最終的に三成が美濃方面に出陣することが決まったのでしょう。むろん、それまでに伏見城攻撃、田辺城攻撃は始まっていました。
 一方、家康のもとには、三成が挙兵するとの兆しがあるとの内通状が届き、家康は「もっけの幸い」、敵を「十把一絡(じっぱひとから)げに葬れば、手間も省ける」と言っていました。ここにも、家康が三成の挙兵を見越し、自分に反対する者をこの機会に一掃しようという描き方がされていましたが、家康は有力者を次々に屈服させるという個別撃破の手段に出ており(中井俊一郎氏の見解)、三成の挙兵は想定外のことだったと私も思っています。
 なお、家康方に宛てた増田長盛の内通状については、偽文書説が白峰旬氏によって唱えられていますし、このことは拙ブログで前述しました。
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