石田三成の実像2692  大河ドラマ「葵 徳川三代」11  従来通りの小山会議の描き方

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、家康方軍勢が西に反転することを決めたとされる小山会議は、通説通りの描き方がされていました。会議の席上、福島正則が「正則の身上、内府殿にお預け申し上げなん」と言うと、諸将も次々にそれに賛同し、山内一豊が居城の掛川城を家康に預けると言うと、これにも諸将は次々に同じ申し出をするという展開でした。
 小山会議については、それがなかったとする白峰旬氏の見解と、実際あったとの本多隆成氏の論争があり、白峰氏の「いわゆる小山評定についての諸問題ー本多隆成氏の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示ー」(2017年発行『別府大学大学院紀要』第19号 所載)については、拙ブログ記事で取り上げたことがあります。私も白峰氏の見解を知り、小山会議は後に江戸幕府によって作られたことではないかと思うようになりました。福島正則が最初に家康味方を表明したことと言い、山内一豊が掛川城を差し出すと言ったことといい、いかにも劇的な展開で、ありえない気がします。白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦」(宮帯出版社)の中では、「7月25日に小山評定がおこなわれたことを示す証明する一次史料は存在しないこと」、小山評定があったとするのは、「徳川実記」などの「江戸時代後期の編纂史料」や「関原軍記大成」などの「江戸時代中期の軍記物の記載内容がそのまま下敷きにされ、敷衍されてきたにすぎない」ことが指摘されています。
 大河ドラマ「葵」では、小山会議が終わった後、三奉行による「内府ちかひの条々」が届き、家康の顔色が変わる場面があります。予想以上に反家康の大名たちが大坂に集結していることがわかったからですが、家康は西に向かっていた黒田長政を呼び戻しています。この描き方は、「徳川実記」によるものであることが、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中の次のような記述によってわかります。
 すなわち、「『徳川実記』によると26日(『黒田家譜』によると27日)に、長政は一旦西上した後、増田長盛ら三奉行の決起への参画を知った家康から呼び返されたとされる」と。
 しかし、光成氏の同書では、7月29日付の黒田長政宛徳川家康書状をもとに、次のように指摘されています。
 「『三奉行の参画への対応について再度長政と協議したいのだが、すでに長政は西上しており、協議できないので、池田輝政に詳細を伝えたから、輝政と協議して欲しい』としており、長政は呼び返されていない」と。この書状の中では、「三奉行」とは記されていず、「大坂奉行衆」とあり、この点について、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)の中で、「『大坂奉行衆』=三奉行というように限定して考える必要はなく、石田三成も含めて『大坂奉行衆』と記していると考えても矛盾はないだろう」と指摘されています。
 
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