石田三成の実像2691 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」42

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑯「慶長3年12月11日、小西行長ら西目衆が博多に到着した」の中で、同日付の島津忠恒宛の小西行長・寺沢正成書状が取り上げられ、次のように解説されています。
 「小西行長は加藤清正より9日遅れて、12月11日、寺沢正成とともに筑前博多に到着しました。このとき、撤退時に明軍からあずかった4人の人質(董一元配下の茅国科、劉綖配下の劉萬寿・王建功、陳璘配下の陳文棟)も連れてこられました。
 博多に着いた小西行長・寺沢正成らは、まだ勝本にいる島津忠恒に、石田三成が順風次第すぐに博多を出発して伏見へ向かうので、自身だけでもすぐに博多へくるようにと指示をしました」と。
この書状は、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)でも取り上げられ、その解説は次の通りです。
 「両人は今朝博多に到着したこと、風向きがよくなり次第、軍勢は今津(博多西部の今津湾)に残したままで、貴殿は早々お越しいただきたい、と伝えている。島津勢の日本への帰還報告を受けるための書状と見てよく、同時に行長がこの日に博多へ到着したことがわかる」と。
 この書状で重要なのは、忠恒に早く来るように促している点です。もっとも、この書状には三成の名はなく、それがわかる史料として、高橋氏の同書には、12月26日付の島津忠恒宛の島津義弘書状が取り上げられ、さらにその翌日付の忠恒宛義弘書状とも合わせて、「島津忠恒は博多に着くと、そこから石田三成と同行して、小西行長らより先に伏見へ向かい、12月24日に到着しました」と解説されています。
 大坂に戻った三成が、「早速中央での政務に復帰した」ことを示すものとして、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、12月26日付の園城寺(三井寺)宛五奉行連署の寺領充行状(あてがいじょう)が挙げられています。さらに翌年1月5日付で関一政宛三成等奉行連署状が出されており、その内容について、「羽柴久太郎(堀秀治)へ貸与するため、信州川中島の蔵入地代官を勤めている関一政に対し、米1200石の拠出を求めるものであった」と説明されています。三成は奉行としての役目を精力的に果たしていることがわかります。
 さらにその五日後の1月10日には秀頼が大坂城に移ります。これに関連して、中野氏の同書には、「大坂城の勤番を定めたとみなされる史料」が取り上げられ、その内容について、「五名の『大老』および徳川秀忠・前田利長や他の奉行衆と並んで、三成も『秀頼様御前へ何時に依らず(拝)謁あるべく候衆』として位置づけられている。ちなみに、ここに五奉行以外で名があがっているのは、石川貞清(備前守)・石田正澄(木工頭)・石田頼明(掃部介)・片桐且元(東市正)といった面々である」と記されています。ここで注目すべきは、三成の兄の正澄の名が入っていることであり、奉行に準じた地位、もしくは秀頼の側近の地位にあったことがわかります。
 
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