旅行記168 小倉旅行5 小倉城 関ヶ原の戦いの前の城主は毛利吉成、戦後は細川氏、小笠原氏、紹介ビデオは関ヶ原から

DSCN0894.JPGDSCN0899.JPG17日の小倉散策は、無法松の碑のところから、神嶽川沿いに北へ向かい(1枚目の写真)、小倉の台所と呼ばれている昭和レトロな旦過市場のアーケードを通り、小文字通りを西に向いて歩き(2枚目の写真)、小倉城へ行きました。
 DSCN0916.JPG 小倉城は、小倉城庭園、松本清張記念館がセットになった共通券を買いましたが、お得でお勧めです。まず城を見学しましたが、今の天守は昭和34年に再建されたものです。小倉城主は秀吉の時代は毛利吉成(大坂の陣で活躍した毛利勝永の父)であり、城の歴史年表には書かれていたものの、城の歴史を紹介するビデオでは、残念ながら関ヶ原の戦いから始まっていました。ナレーターは草刈正雄さんでしたが、草刈さんが小倉出身とは知りませんでした。そのビデオでは、関ヶ原の戦いは大河ドラマ「葵 徳川三代」の映像が使われていました。もっとも、登場しているのは、佐々木功さん演じる細川忠興だけでした。忠興は関ヶ原の戦いの後、小倉城主になっています。その後、小倉城主は小笠原氏に替わり、江戸時代を通じて替わりませんでした。
 なお、この映像では、忠興夫人のガラシア夫人が、三成の人質になるのを拒んで自刃したため、関ヶ原の戦いで忠興は、「三成の首はわれらが獲るぞ」と言って戦いを始めていました。ガラシア夫人の仇は自分が取るという描き方でしたが、これは大河ドラマ自体が、家康対三成という構図で捉えているために、ガラシア夫人の自刃も三成のせいにしているわけです。しかし、実際は三成だけが首謀者ではなく、二大老・四奉行制による新たな豊臣政権が形成されたのが実態でした(白峰旬氏の見解)から、三成一人に罪をかぶせるというのは酷というものであり、江戸時代の三成奸臣説が影響しているものと思われます。それに、ガラシア夫人が自刃した時には、三成はまだ大坂城に来ていませんでしたし、奉行にも復帰していませんでした。三成が挙兵後、大坂に初めて入ったのは、7月30日のことで、それまで専ら佐和山にとどまり、その後豊国社に参拝したり、伏見城に督戦に行ったりしています。
 小倉城では、細川家、小笠原家に関する史料が展示され、細川忠興の茶室についての映像コーナーがあり、宮本武蔵に関する展示もありました。

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