石田三成の実像2700  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」8

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がB文書(43号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されていますが、光成氏の同書では、B文書の最初の部分について次のように現代語訳されています。
 「表向きの処理はまだ済んでいません。増田長盛と石田三成が申されるには、上杉景勝と私(毛利輝元)の決定に従い、どのようにでもするということです。景勝と相談して意見を伝えました。(長盛と三成も私たちの意見に)同意するだろうと思います。その様子についてはまたお伝えします」と。
 この部分についての白峰氏の解説は次の通りです。 
 「この時点では、正式な『あつかい』(=調停)がまた済んでいないことがわかる。そのため、(中略)増田長盛・石田三成から毛利輝元へ『上杉景勝と我等(=増田長盛・石田三成・毛利輝元)の覚悟次第で定まるだろう』と述べた、としている。このことからは、正式な『あつかい』(=調停)に関する一方の当事者が上杉景勝であることがわかる。そして、上杉景勝に増田長盛・石田三成・毛利輝元が味方していることもわかる。
 ただし、(中略)毛利輝元は上杉景勝に対して『異見』した、としていることから、この時点では毛利輝元は慎重な姿勢を崩していない」と。
 「異見」に対する解釈が、光成氏と白峰氏とは違っていることに気づきます。「異見」という言葉の意味から云えば、白峰氏の見解の方が妥当だという気がします。これは、光成説では、この書状が、七将による石田三成襲撃事件(実際は反石田三成訴訟騒動)の時だとされているために、輝元は三成に味方しているという捉え方がされているという関係上、輝元が慎重な姿勢というのは考えにくいので、「異見」を「意見」という意味にしたのではないでしょうか。しかし、これを白峰説のように、翌年の家康による上杉攻めの時のことだとすると、家康に反対する勢力が結集して上杉景勝と同調することに、この時点では、増田長盛・石田三成らは賛成しているものの、輝元はまだ態度を決めかねていたということになります。家康が上杉攻めのため大坂城を出立するのは6月16日のことですが、この書状を見る限り、それ以前に水面下で反家康連合の工作がされていたことがわかります。この動きに奉行の増田長盛も引退していた三成も加わっていたことが注目されます。 


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