石田三成の実像2701  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」9

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がB文書(43号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。次に示すのは、光成氏の同書でのB文書の現代語訳の続きです。
 「一、昨晩、山名禅高がお越しになって話をしました。家康の懇意はいい加減ではないようです。その上、起請文も取り交わそうとのことですので、異議はありません。安心してください。
 一、(毛利輝元が)下屋敷に移ることを聞いて、(家康は)それがよいと申されたそうですので、さらに尋ねてみようと思います」と。
 この部分についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「昨日の夜、山名禅高が毛利輝元のところへ来て話し合ったとしたうえで、山名禅高は徳川家康と非常に入魂の間柄としている。このことから、30号文書の下線bにおける『彼方』とは徳川家康のことを指していること、『彼方』と入魂の人物とは山名禅高であることがわかる。
 つまり、正式な『あつかい』(=調停)とは、徳川家康と上杉景勝のトラブルに関する『あつかい』(=調停)であり、その調停の手助けを山名禅高が毛利輝元から頼まれた、ということになる。
 その山名禅高の提案というのは、起請文(『神文』)を両者(徳川家康と上杉景勝)で取り交わしてはどうかというもので、その点には毛利輝元も同意している」
 「『下やしき』とあることから、30号文書の下線cの『普請』とは、毛利家の下屋敷の普請であることがわかる。その場所は、大坂、或いは、伏見であろう」と。
 輝元が家康と景勝との調停を模索していることがわかりますが、この調停が失敗に終わった結果、家康は上杉攻めに向かったということになります。「彼方」が、家康を指しているのは、光成説でも白峰説でも同じですが、書状が記された時期が全く違います。白峰氏の見解に従えば、三成も上杉攻めの際、反家康の立場だったわけですが、家康自身は三成が自分に反旗を翻そうとは思っていなかったと私は見ています。家康が前田家に家康暗殺の疑いをかけたとき、隠居していた三成は家康の要請に応じて前田家を牽制するために出兵しています。三成が挙兵することを家康が知っていたら、家康は大坂を出ることはなかったでしょう。大きなリスクを伴うことでしたから。

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