石田三成の実像2686 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」40

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑭「慶長3年12月6日、島津龍伯は伏見において徳川家康の私邸を訪問した」の中で、秀吉の死後の島津龍伯の訪問先について具体的に述べられていますが、その続きです。
 「12月1日、徳川家康は近衛信尹・山岡道阿弥をつうじて、島津龍伯へ、徳川邸を訪問するように要請しました。島津龍伯は三人の奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)へ報告し、このうち増田長盛・長束正家からの許可を得て、12月6日、徳川邸を訪問しました。このとき徳川家康は島津龍伯に、鉄砲の購入を申し入れ、また、伏見における鉄砲の制作を依頼しました。
 なお、通説では、島津龍伯が徳川家康の私邸を訪問する前に、徳川家康が島津龍伯の私邸を訪問したことになっていますが、島津龍伯の書状によりますと、そのような事実はありません」と。
 家康の薩摩邸訪問がなかったと、高橋氏の同書には記されていますが、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、慶長3年12月5日に「伏見在」とあり、その典拠として「言経卿記」の「内府早朝ヨリ嶋津入道へ御出成云々」という記述が挙げられています。この記述が正しいとすれば、先に家康が島津邸を訪問し、次の日に龍伯が徳川邸を訪問したことになります。このあたりは実際のところ、どうだったのか、今後検討する必要があります。
 前述したように、大河ドラマ「葵 徳川三代」では、博多から伏見城に戻った三成が、自分の不在中、家康の薩摩屋敷訪問を、島津義弘に対して詰問していました。ドラマでは逆に龍伯の徳川屋敷訪問については、触れられていませんでした。龍伯の徳川屋敷訪問については、高橋氏が指摘されるように、家康の要請があったこととは云え、奉行衆の許可を得た上のことで、言わば公然のことだったわけで、三成がそのことを詰問することはなかったはずです。
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)の中では、家康が龍伯の訪問を要請し龍伯が家康屋敷を訪問し、その後、家康が島津屋敷を訪問するという描き方になっていました。龍伯が家康屋敷を訪問したのは11月20日、家康の島津屋敷訪問が12月6日ということになっていましたが、その小説の描き方は正しくなく、実際は、12月6日に島津龍伯が家康の屋敷を訪問したわけです。
 小説「関ヶ原」では、この時期の家康の諸大名訪問を多数派工作というふうに捉えられていましたが、その点も改めて検証する必要があります。相田氏の同書には、家康は11月25日に増田長盛屋敷、26日に長宗我部屋敷、12月9日に細川幽斎屋敷などを訪問しているという、やはり「言経卿記」の記述が紹介されています。
 
0

この記事へのコメント