石田三成の実像2708  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」14

 白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の現代語訳の続きです。
 「一、右のような状況では、すでに全員徳川派になってしまったと聞きました。現在は(どのように対処するか)舵の取り方が肝心です。山名禅高や西笑承兌を利用して、ひそかに調略するのがよいと安国寺恵瓊は申しました。いずれにしてもこちらへ早くお越しになられて話し合いましょう。山名禅高がちょうど昨日来られました。いろいろと仲裁しようとされましたので、こちらから持ちかければ調略は成功するでしょう。どのように思われますか。お考えを承りたいのです」と。
 この部分の白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「このまま上杉討伐が発動されてしまうと、家康方(『彼方』)に諸大名が付いてしまうので、(家康と親しい)山名禅高によって(上杉討伐の発動をやめさせるように)家康に内々に調略をおこなうべきである、と安国寺恵瓊が述べた、としている。
 このことは、上述した、石田三成・小西行長などの毛利輝元に対する出陣要請にもかかわらず、この時点では、いまだ毛利輝元は、家康に調略をおこなって上杉景勝との和解(つまり、家康が上杉討伐を発動しないこと)を画策していたことを示している」と。
  輝元が家康との和解を求めている点では、光成氏も白峰氏も全く同じ捉え方がされていることがわかりますが、当然のことながらその背景は全く違います。光成説では、七将による石田三成襲撃事件の際、三成は輝元らと結んで反撃に出ようとしたものの、大坂城を徳川派に押さえられたため、輝元は家康との和解の道を探ろうとしていたというのに対して、白峰説では、家康が上杉討伐を発動しようとして、三成らが家康に対する決起を輝元に促すものの、輝元は家康と上杉の和解を図る道を探ろうとしていたということになります。この和解は不調に終わり、家康が上杉攻めのため大坂城から出陣した後、三成が挙兵し、輝元は三奉行の要請を受けて大坂城に入るわけですが、結局輝元は大坂を動かず、家康と直接対決することはありませんでした。この書状からも、家康との対決を極力避けようという輝元の姿勢が表れている気がします。
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