石田三成の実像2711  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」17 上杉攻め直前の段階で大谷吉継はすでに反家康のスタンス

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の現代語訳の続きです。
 「一、大谷吉継が申したことには、下屋敷に下がるのはよろしくないとのことです。徳川家康と対峙するようにとのことです。石田三成にもこの前、秀元に軍勢を三千人添えて派遣しているとの情報を申しました。大谷吉継はよく知っているので、本当はそうではないのだと申すつもりです。(輝元が)この状況を引き取って、(石田三成に)加担するのは無益なことです。人数合わせをするのがよいとの吉継の内意です」と。
 この部分についての、白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「毛利輝元が下屋敷へ下ることをやめて、家康と『むかいつら』になるように、と大谷吉継が述べた、としている。『むかいつら』は『正面、または、真向いにあるもの』という意味であるので、毛利輝元を家康と対抗させよう、という意味にとることができる。逆に言えば、毛利輝元が下屋敷へ下ると家康に対抗できない、という意味にとれるが、そのことが具体的にどのような状況を指すのかは不明である。想定としては、家康が上杉討伐を発動した場合にそれに対抗するための軍事オプションを想定している可能性もある」
 「ここで重要なのは、大谷吉継が反家康のスタンスに立ち、毛利輝元方(つまり、石田三成が)ついている、という点である」
 「この間、毛利秀元に人数3000(の兵力)を添えて遣わした、と毛利輝元が石田三成に知らせた、としている。この兵力供出が、この時点でどのような意図からおこなわれたのかは不明であるが、(上述の)石田三成による毛利輝元への出陣要請を考慮すると、家康が上杉討伐を発動した場合に、毛利・石田方で反家康決起の軍事オプションを想定して、そのために動かせる先手の軍勢としての意味があるのかもしれない」
「ここで重要なのは、大谷吉継が反家康のスタンスに立ち、毛利輝元方(つまり、石田三成方)についている、という点である」
 「この間、毛利秀元に人数3000(の兵力)を添えて遣わした、と毛利輝元が石田三成に知らせた、としている。この兵力供出が、この時点でどのような意図からおこなわれたのかは不明であるが、下線cの石田三成による毛利輝元への出陣要請を考慮すると、家康が上杉討伐を発動した場合に、毛利・石田方で反家康決起の軍事オプションを想定して、そのために動かせる先手の軍勢としての意味があるのかもしれない」と。 6月上旬の時点で、大谷吉継が反家康の立場に取っていたとすれば、7月上旬に吉継が三成から反家康の決起を打ち明けられ、最初は勝ち目がないと反対したものの、最後は三成の説得を吉継が受け入れたという今までの通説が大きく崩れます。吉継が反対した理由として、三成には人望がないと言ったということもまことしやかに言われますが、これらの話は後世の作り話だということがわかります。吉継は早い段階から、三成に同調していたわけです。 

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