石田三成の実像2713  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」19

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がE文書(45号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の家康が上杉攻めに向かい、「内府ちかひの条々」が出され、白峰氏が名付けられた石田・毛利連合政権が成立した直後の、7月中旬から8月頃にかけてのものだと指摘されています。光成氏の同書のE文書の前半部分の現代語訳は次の通りです。
 「三人にお伝えになりましたか。お伝えになったことと思います。
  一、下屋敷へ(移る)のは当然のことです。私(=輝元)もそのことを言ったのです。このことは一刻も急ぎたいのです。安国寺恵瓊へもそう言いました。(下屋敷の)塀(の普請)を第一に急ぐように榎本元吉に命令しました。貴方様(=元康)からも仰ってください」と。
 この部分についての、白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「『下やしき』の普請が遅れていることを叱責し、『へい』(=塀)を急ぐように、榎本元吉へ申し聞かせるように指示している。『下やしき』については、前掲の43号文書に出てきたほか、普請について榎本元吉と相談するように指示したことは、前掲の30号文書に出てきたので、同様に45号文書も慶長5年に比定できる。ただし、普請の遅れを叱責していることから、45号文書は、前掲の30号文書、43号文書よりも時期的にあとのものであることがわかる」と。
 ここでは、A文書(46号文書)については触れられていませんが、白峰氏の同書では、先にE文書について論じられ、次にA文書について論じられていますので、触れられていないのは当然で、拙ブログでは順序を替えて白峰氏の見解に従った時代順に文書を紹介していることをご了承ください。A文書でも、「下屋敷の普請が進捗していないこと」を「叱責」していますが、それでも進捗していないことを輝元は相当苛立っていることがE文書からうかがえます。具体的に塀の普請を急がせていることで、それがうかがえます。
 いずれにせよ、白峰氏が指摘されているように、「普請」について触れた4通の書状は一連のものだということは明らかです。
 
 

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