石田三成の実像2714 白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」20

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がE文書(45号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の家康が上杉攻めに向かい、それに対して家康を弾劾する「内府ちかひの条々」が三奉行によって出され、白峰氏が名付けられた石田・毛利連合政権が成立した直後の、7月中旬から8月頃にかけてのものだと指摘されています。光成氏の同書のE文書の現代語訳の続きです。
 「一、蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正の方針は定まったようです。とにかく中国(=毛利氏領国)の一大事です。しかし、家康の懇意はいい加減ではないとのことです。彼衆(=三人衆)は身に覚えがないと聞いています」と。
 この部分についての、白峰氏の解釈・解説は次の通りです。
 「蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正について、『さゝへ』(=支障)になることが定まった、としている。この場合の『さゝへ』とは『支障』という意味であるから、豊臣公儀にとっての支障、つまり、蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正が慶長5年7月17日の豊臣公儀からの家康放逐を決定した豊臣公儀の方針(=『内府ちかひの条々』)に従わないことが明らかになった、という意味になる」
 「光成本では」、「『さゝへ』について、『方針』と現代語訳をしているが、この点については、上述したように、『さゝへ』=『支障』という意味にとった方が、文脈として意味が通ると思われる」
 「その結果」、「早くも(こうした蜂須賀家政・黒田如水・加藤清正の動向が)『中国』(=毛利氏の領国)にとって『大事』(=危険なこと)になっている、としている。これは慶長5年7月の反家康決起の時点で、黒田如水(豊前国中津城主)と加藤清正(肥後国熊本城主)は九州に在国し、蜂須賀家政の居城は四国の阿波国徳島城であるので、毛利氏の領国である中国地方から見れば、隣接する九州、四国に敵が出来た、ということへの危機感を示している」と(まだ後に続いていますが、それについては後述します)。
 「さゝへ」の語意については、白峰氏の同書の【註】に、「時代別国語大辞典」室町時代編3、「邦訳日葡辞書」が典拠として挙げられています。確かに、「方針」ではなく、「支障」という意味であることが正しいと云えます。もっとも、黒田如水・加藤清正らが家康側に就いたというのは輝元の捉え方であり、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏の論考によれば、7月21日付の清正書状の中で、清正は家康の上杉討伐が、秀吉の申し置いた「筋目」に抵触すると考え、困惑していること、清正は恵瓊の考えが知りたいと思っていることなどが記されていること、また8月1日付の如水書状から、この時点で如水は去就を明らかにしていなかったことが指摘されています。 

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