石田三成の実像2716 白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」22

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の「おわり」の中で、次のように記されています。
 「本稿での検討の結果、『山口県史』史料編・中世3の30号、43号、44号、45号、46号、47号の各文書のうち、慶長4年閏3月に比定できたのは、44号文書と47号文書だけであった。この点については、前掲『山口県史』史料編・中世3の年次比定と合致する。
 その他の30号、43号、45号、46号の各文書は、慶長5年の関ヶ原の戦いの前段階や上杉討伐に関係する内容であることから、いずれも慶長5年に年次比定できる」と。
 「『山口県史』史料編・中世3の年次比定」については、白峰氏の同書で、次のように記されています。
 「『山口県史』史料編・中世3において、上記の6つの毛利輝元書状のうち、『この文書は慶長四年閏三月のものと思われる。』としているのは、この44号文書と、後掲の47号文書のみである」と。
 光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)では、この六通の毛利輝元書状はいずれも、七将による石田三成襲撃事件(実際は、反石田三成訴訟騒動だったと水野伍貴氏・白峰氏によって指摘されています)があった慶長4年閏3月のものだと記されていますが、「『山口県史』史料編・中世3の年次比定」が正しいのかどうかということについて、十分検討されたのか少し疑問に思います。
 さらに白峰氏の同書では、「44号文書と47号文書だけが慶長4年閏3月に比定できる、とする本稿の検討結果からすると、上杉景勝は慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関係していないことになる」と指摘されています。
 上杉景勝が反石田三成訴訟騒動に関係していないのだとすれば、景勝は中立的な立場に立っていたのか、あるいは三成寄りであったにもかかわらず敢えて具体的な動きに出なかったのか、なお今後、検討する必要があります。三成の次女が、上杉家家臣の岡半兵衛に嫁いでいますが、その時期として、景勝・直江兼続が帰国した、慶長4年9月頃のことだと、白川亨氏によって推測されています。白川氏はこれをもって、上杉と三成との間に家康挟撃策の密約があった証だということも述べられていますが、それだけで密約があったと見ることができるかは論としては弱いという気がしますが、少なくとも、この時点で三成と上杉の親密さはうかがえます(三成は上杉家の取次を長年務めてきました)。この訴訟騒動の時も、景勝は三成に同情的だったのではないかという気はしますが、その点は細かく見てゆかねばならないのではないでしょうか。

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