石田三成の実像2717 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」43

 随分間があいて申し訳ありませんが、高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の続きです。「⑰慶長4年1月3日、島津龍伯は島津忠恒・島津義弘らに起請文をさしだした」の中で、史料としてその起請文・覚書が取り上げられ、その内容について、次のように記されています。
 「徳川家康のもとへ参上し、また、徳川家康の私邸を訪問しましたが、以前からの考えを変えたとは申し入れていませんし、また変えるようにとも承っていません」と。
 この起請文の釈明内容について、通説のもととなっている島津家の編纂史料「義弘公譜」が史料として取り上げられ、その内容について次のように説明されています。
 「慶長3年11月下旬、数年間つづいた朝鮮の陣が終わり、同年12月、島津義弘・島津忠恒父子は博多に着岸した。
  そこで待ち受けていた毛利秀元・浅野長政・石田三成ら三人の重臣と面会した。
  その後、島津義弘・島津忠恒父子は名島へおもむき、石田三成の宿所で慰労された。
  石田三成がひそかに言うことには、『上方において、島津龍伯が徳川家康と交流し、互いに出入りしていることは言語道断である。これは天下の制法(亡き豊臣秀吉様の遺命)にそむくものである』とのことだった。
  島津義弘・島津忠恒父子は石田三成の言うことをくわしく聞き、その内容を島津龍伯へ書き送り、問いただした。
  そこで島津龍伯は経緯をくわしく釈明し、起請文をそえて返書した。これは石田三成に対して、島津龍伯が天下の制法をたがえる意思がないことをしめすためである。
  石田三成は内心では、徳川家康と島津龍伯の交流をねたんでいた」と。
 最後の部分などは、江戸時代に形成された三成奸臣説の賜物という気がしますが、高橋氏はこの「義弘公譜」に記されている内容のおかしな点が5点挙げられています。まず1点目は「石田三成と島津義弘は博多で顔を合わせていません」ということであり、三成は先に島津忠恒を伴って上洛しています。その理由について、高橋氏は次のように指摘されています。
 「石田三成が上洛を急いだのは、島津家の指南役として、島津忠恒を徳川家康に引き合わせるためであると考えられます。12月15日すぎには、加藤清正・黒田長政ら東目衆が先に徳川家康への報告をおえていました。石田三成はあらためて泗川における戦功を、その当事者である島津忠恒とともに報告する必要がありました」と。
 三成が上洛を急いだ意味については、十分検討する必要がありますが、忠恒を家康に合わせるためであったという観点は新しいものではないかという気がします。先行研究があるのかどうかまでは把握していませんが。

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