受贈御礼 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」・石田三成の実像2719 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」45

 白峰旬氏よりご著書「新視点関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す」(平凡社)をご恵贈賜わりました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。最近のご論考をまとめられ、新たに出版されたものですが、初めて拝見するご論考も含まれており、本の内容については拙ブログで改めて取り上げさせていただきたいと思います。
 さて、高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の続きです。「⑰慶長4年1月3日、島津龍伯は島津忠恒・島津義弘らに起請文をさしだした」の中で、その起請文の釈明内容について、通説のもととなっている島津家の編纂史料「義弘公譜」が史料として取り上げられ、その内容のおかしな点が5点挙げられ、その1~3点目は前述しましたが、4・5点目として次の点が挙げられています。
「第四に、石田三成も島津義弘も島津忠恒も、慶長4年1月3日には伏見にいます。また、島津龍伯起請文の宛先は島津忠恒と島津義弘です。
 島津龍伯は、石田三成に対してではなく、島津忠恒と島津義弘に対して、おなじ伏見にいるにもかかわらず、あえて起請文を書き送らなければならないような重要な釈明をしたということになります。
 第五に、そもそも徳川家康と石田三成は対立していません。石田三成は徳川家康の指示どおりに動いています。石田三成が、徳川家康と島津龍伯の交流をねたむ理由ありません」と。
 三成が島津忠恒を伴って博多から大坂に戻ったのは12月24日のことですが、伏見で政務に復帰したものと思われます。12月26日付で、園城寺(三井寺)宛五奉行連署状、翌1月5日付で関一政宛五奉行連署状を発しています。10日には、豊臣秀頼が伏見城から大坂城に移るのに伴い、三成も大坂城に移りました。家康も大坂へ行きますが、すぐに伏見に戻りそのまま伏見にとどまります。しかし、それは秀吉の遺命に基づくものですから(秀頼を大坂城に移すこともそうでした)、当然の流れだったのかもしれません。通説では、三成は家康を孤立させるために、秀頼を大坂城に移したという捉え方がされますが、家康と三成の対立で、秀吉死後の政局を捉えるという見方の表れで、高橋氏はそういう見方に疑問を呈されていますが、その見解には同意します。
 もっとも、この後、家康の婚姻問題が起こり、三成は四大老・五奉行の名をもって家康を糾弾しますが、三成の姿勢はあくまで五奉行・五大老制を維持しようとするものであって、それに違反する者は家康ならずとも糾弾したはずです。家康の婚姻問題は収拾しますが、この後、前田利家が死去し、反石田三成訴訟騒動が起こり、その責任を問う形で三成が隠居します。家康の専横がこの後始まりますが、三成も家康が五大老・五奉行制を維持しようとする限り、家康に従う姿勢を見せました。それがよくあらわれているのが、家康暗殺未遂事件に関して、前田利長に疑いがかけられた時、三成が家康の要請に応じて前田家の動きを牽制するために出兵したことです。むろん、三成も家康の姿勢に疑問を感じていたと思われますが、豊臣政権の体制を維持するためには仕方がないという思いを持っていたのではないでしょうか。それが、家康が上杉攻めを勝手に発動した時には、家康の意図が五大老・五奉行制の破壊であることを三成ははっきり感じ取ったと考えられます。

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