石田三成の実像2704  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」12

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の最初の部分の現代語訳を前回記しましたが、白峰氏が問題とされている部分は次のようなところでした。
 「『そこで、輝元も天馬のように都から下って、陣営を尼崎へ敷き続けるように』と申されました」と。
 繰返しになりますが、この部分の「申されました」の主語は石田三成たちです。尼崎云々の部分は、原文では「陣取、あまさきへ持つゝけ」となっており、これが「あまさきへ陣取持つゝけ」と書いておれば、光成説のようにな現代語訳になるかもしれないと白峰氏は述べつつ、「当時、『尼崎』は『あまさき』ではなく、『あまがさき』と呼称したから」、「『あまさき』を『尼崎』という地名に比定する光成本の理解自体に無理がある」と指摘されています。「その証左として、『1567年(永禄10年)7月8日附、堺發、パードレ・ルイス・フロイスの書翰』には、『當地方の重立ちたる約二十五人のキリシタンの武士、アマガサキと稱し、當地より七レグワの大なる村に於て會合し』と記されている」ことが挙げられています。
 こういうことからすれば、光成氏の解釈は無理があるような気がします。そうだとすれば、いわゆる七将による石田三成襲撃事件の際、伏見城内の治部少丸に立てこもった三成が、尼崎の輝元らと結んで、反撃に出ようとしていたということが怪しくなってきます。襲撃事件ではなく、反三成訴訟騒動であったことが、白峰氏によって明らかにされていますから、訴訟騒動で、三成の方から軍事行動に出るというのも考えにくいことです。三成が軍事行動に出ようとしていたとすれば、家康が上杉攻めを強行しようとしていた時だと考える方が自然です。そもそも、三成が軍事行動に出るというのは、よほどのことではないかという気がします。奉行職にいた時は、政権を維持することが第一で、みずから惣無事を壊すようなことはしなかったのではないでしょうか。よく三成や嶋左近が家康暗殺を謀ったというふうに云われますが、それは後世の作り事という気がしてなりません。三成が家康を討つというのなら、あくまで豊臣公儀という立場であり、実際、関ヶ原の戦いの際も、白峰氏の見解通り、二大老・四奉行体制という新たな豊臣公儀を作り出し、家康を糾弾しています。結果的に、三成たちは戦いに敗れましたから、謀反人というレッテルを貼られ、それが長い時代続きましたが、三成ほど集団指導体制による豊臣公儀の維持ということを考えていた人物はいなかったのではないでしょうか。
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