石田三成の実像2725 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」3 慶長5年8月1日の時点では、「反逆」と書けなかった家康

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)のプロローグで、関ヶ原の戦いに勝利するまでは、徳川家康は石田三成・毛利輝元ら豊臣公儀方らの動きを自分に対する反逆とは書けなかったということを示す史料として、慶長5年8月1日付の脇坂安元宛家康書状の中に「上方忩劇」と記されていることが挙げられ、次のように解説されています。
 「『忩劇』とは『日葡辞書』(『邦訳日葡』)によれば『そうげき』と読み、『(さわぎ、乱る)混乱』という意味である。この点を考慮すると、『上方忩劇』とは、上方での政治状況(つまり国政)が混乱している、という意味になる。
 このように、家康自身が8月1日の時点では、自分に対する反逆と記していない点は興味深い。もし、8月1日の時点で、家康自身がその後の戦局の流れを十分読み切っていて、自分が完全に勝利することがわかっていれば、自分に対する反逆と書いたであろう。しかし、上述のように『上方忩劇』という表現にとどめたことは、家康自身にとって、その後の戦局の展開に十分な自信がなかったことの表われと言えよう」と。
 家康は8月1日の時点では、小山にいたものと思われ、5日に江戸に戻っています(相田文三氏『徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)』)。それから9月1日まで家康は江戸を動かなかったわけですが、この間、家康は諸将に手紙を書いて多数派工作をしていたというのが通説ですが、公儀性を剥奪された家康が江戸を動けなかったのが実態だったというのが白峰氏の見解です。
 しかし、関ヶ原の戦いで、三成・輝元ら豊臣公儀側が敗れ、三成・小西行長・安国寺恵瓊が謀反人として処刑されるに及んで、三成らのしたことは反逆だという見方に変わってきます。またそうしなければ、三成が推戴していた秀頼の責任を問われたはずで、秀頼の責任を不問にすることで、豊臣家の存続がはかられたと云えます。
 関ヶ原の戦いの後、三成らが反家康の挙兵をしたことを「反逆」だという見方が公家衆の間でも共通認識として広がっていたことを示すものとして、白峰氏の同書では、「三藐院記」の慶長6年1月30日条に「去秋逆乱」という記載があることが挙げられ、次のように解説されています。
 「『去秋』とは、前年の慶長5年(1600)の秋という意味であり、この場合、旧暦の秋であるから、7~9月に該当する。7月は大坂三奉行(増田長盛・長束正家・徳善院玄以)が『内府ちかひの条々』を出して家康を弾劾し、反家康の挙兵がなされた月であり、9月は関ヶ原合戦がおこなわれた月であるから、反家康の武力闘争むの開始と終焉という意味では、『去秋』という記載は時期を正確に表している。
 『逆乱』とは、『日葡辞書』(土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』)によれば、『げきらん』と読み、『(逆に乱るる)大混乱、または、反乱』という意味である」と。
 近衛信尹の胸中にも複雑な思いがあったに違いありませんが、「逆乱」という現実を受け入れざるをえなかったのではないでしょうか。

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