石田三成の実像2726 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」4 統一国家成立のための戦争・三成の戦後構想・三成が主導的役割を果たす

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)のプロローグで、「関ヶ原合戦が、統一国家成立のための戦争であった」という藤田達生氏の見解を立証するものとして、白峰氏は三成の戦後構想を挙げておられます。
 すなわち、「石田三成は戦後構想として、家康の領国である関東を制圧したのち、慶長5年(1600)暮から翌6年(1601)春にかけて、関東の仕置のため、西国諸将の軍勢を関東に遣わす予定であったことや、上杉景勝(会津若松城主)をもとの領国であった越後国へ移封し、現在の越後春日山城主の堀秀治を上方の欠国に移封する、という構想を立てていたことを、三成が発給した書状内容から知ることができる[白峰2011]」と。
 この白峰氏の書は、「新『関ヶ原合戦』論」(新人物往来社)を指し、三成が発給した書状というのは、7月30日付と8月6日付の真田昌幸宛三成書状及び8月10日付の佐竹義宣宛三成書状です。このうち、移封の件を記した8月6日付の三成書状については、白峰氏の同書で次のような点が指摘されています。
 「石田・毛利連合政権が公儀として、大名を移封する権限を掌握していたことを示している。三成は書状の最後で九州の諸将の秀頼への無二の奉公ぶりを激賞しているが、このことは九州の諸将の兵力が毛利輝元の兵力とともに石田・毛利連合軍(石田・毛利公儀軍)の主力戦力であったことを明確に示すものであった」と。
 ちなみに、8月6日付と10日付の三成書状の中で、三成は家康が西上してくる場合、尾張と三河の間で討ち果たすつもりであることも述べていますが、この構想は、福島正則が城主だった尾張の清洲城に家康方軍勢が入り(三成は家康方軍勢が来る前、清洲城に使者を送って開城させようとしますが、福島側が応じず、果たせませんでした)、さらに家康方に岐阜城を落とされてしまったことによって、瓦解し防御ラインを後退させざるをえませんでした。
 白峰氏の「新視点関ヶ原合戦」では、三成の戦後構想を立てていたことから、次のような点が指摘されています。
「このことは、石田三成が関ヶ原合戦について主導的役割を果たしただけでなく、戦後の新しい統一国家(豊臣公儀による新支配国家)のグランドプラン(=新統一国家構想、新統一国家ビジョン)をデザインできる並外れた資質の政治家であったことを示している。
 昨今では、関ヶ原合戦における石田三成の役割を過小評価する向きがあるが([乃至・高橋2018])、上記の理由から筆者(白峰)とは、この点は見解が異なる」と。
 「乃至・高橋2018」とは、乃至政彦氏・高橋陽介氏の「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」(河出書房新社)を指しますが、戦後すべての責任が三成らになすりつけられたきらいはあるとはいえ、三成が戦いで主導的役割を果たしていたこと自体は白峰氏の見解通りだと思っています。
 
 

 
 

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