石田三成の実像2727 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」5 クラウゼヴィッツ「戦争論」での指摘を関ヶ原合戦に当てはめる1

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)のプロローグで、プロイセンの将校だったクラウゼヴィッツの書いた「戦争論」の記載内容を関ヶ原合戦当てはめて論じられていますが、次のように記されています。
 「敵国(敵勢力)と武力行使を伴わない政治交渉が行き詰まった場合は、他の政治交渉の形である戦争という手段がとられる」という「戦争論」の指摘を、「関ヶ原合戦にあてはめて考えると、毛利輝元、石田三成などの反家康グループが、家康の恣意的な政治運営に対して、不満・鬱憤を爆発させて弾劾(『内府ちかひの条々』)したことに端を発していることから、武力を伴わない政治交渉から戦争(=上記の『他の手段をもってする政治的交渉』)という形に切り替わった、と見なすことができる」と。
 「家康の恣意的な政治運営」ということについては、家康が前田家などを屈服させたこと(三成や吉継が家康の要請を受けて前田家を牽制するために出兵したことをどう捉えるかという問題はありますが)や、大坂城西の丸に陣取り新たに天守を建てたことをはじめとして家康の専横ぶりが目立つようになり、反家康グループの間で「不満・鬱憤」がたまっていたと思われますが、直接のきっかけは、家康が三奉行らの反対を押し切って上杉攻めを強行したことでした。上杉攻めを決定した直後の、三成や毛利輝元の動きは、白峰氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)解釈について」の中で明らかにされており、拙ブログでも取り上げました。「内府ちかひの条々」は、3奉行の名で発せられているものの、その作成には三成が大きく関わっていたと私は思っています。家康の罪状を事細かに並べ立てているのもそうですし、桐野作人氏が指摘されているように、上杉景勝宛と推定される増田長盛・石田三成連署条目に、「内府ちかひの条々」と同じようなことが記され、しかも「内府ちかひの条々」で使われていた家康に対する敬語が、この連署条目には使われていず、この連署条目の方に三成の思いがこもっていると考えています。
 さらに白峰氏の同書には、次のようなことも記されています。
 「『戦争論』では、『戦争とは、相手にわが意志を強要するために行う力の行使である』(第一編第一章二項)としている。このことを関ヶ原合戦にあてはめると、先に挙兵した毛利輝元、石田三成などの反家康グループが、標的にした『相手』は家康であったから、この戦争に勝利する以外に『わが意志を強要する』ことはできない段階に達していたことになる。換言すれば、関ヶ原合戦の最終目標の達成の有無は、家康を敗北に追い込み、『わが意志を強要する』ことができるかどうかにかかっていた」と。
 確かに、反家康グループは、「内府ちかひの条々」を出した後、戦力を分けて各地に進出し、家康方の城攻めにかかっており、その最終目標は家康を討つことにありました。

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