受贈御礼 白峰旬氏・中西豪氏「最新研究 江上八院の戦い」 三成の実像2728 白峰氏「新視点関ヶ原合戦」6「戦争論」での指摘を関ヶ原合戦に当てはめる2

白峰旬氏より新著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)をご恵贈賜わりました。この場を借りてお礼申し上げます。中西豪氏との共著で、この戦いに関するはじめての研究書です。この戦いについて、一般の人はあまりよく知らないのではないでしょうか。関ヶ原の戦い後一ヶ月余りして起こった、九州での龍造寺氏・鍋島氏と立花氏との戦いです。中西氏は龍造寺氏・鍋島氏の視点から、白峰氏は立花氏の視点から、それぞれ論じておられるのが素晴らしいアプローチの仕方だと思います。内容については、拙ブログで改めて取り上げたいと思います。
 関ヶ原の戦いが結果的に一日で終わったために、家康の勝利が決まっていたように思う人が少なくありませんが、戦いは畿内でも、東北でも、信州でも、北陸でも、尾張でも、四国でも、九州でも起こっており、全国的な規模でしたし、期間も7月から10月に及ぶものでした。こういう国内の騒乱状態を白峰氏は「慶長庚子の大乱」もしくは「慶長庚子の大兵乱」と呼ぶことを提唱されていますが、本戦も「関ヶ原の戦い」ではなく、実際は「山中の戦い」だとも指摘されていますから、いずれ、「関ヶ原の戦い」という言い方もされなくなり、教科書から消える可能性もあります。
 さて、白峰氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)のプロローグで、プロイセンの将校だったクラウゼヴィッツの書いた「戦争論」の記載内容を関ヶ原合戦に当てはめて論じられており、一昨日のブログ記事の続きですが、次のように記されています。
 「戦争論」では、「戦争において、敵の重心(=力と運動の中心)を全力で打撃することの重要性を説い」ているが、「このことを関ヶ原合戦にあてはめて考えると、上述したように、石田三成は戦後構想として、家康の領国である関東を制圧したのち、慶長5年(1600)暮から翌6年(1601)春にかけて、関東の仕置のため、西国諸将の軍勢を関東に遣わす予定であったことがわかるので、三成は慶長5年(1600)暮までに家康の領国である関東を軍事的に制圧することを企図していたことになる。
 三成が、敵である家康方軍勢の重心(=関東の領国)を打撃して制圧することを企図したことは、上記の『戦争論』における『重心』打撃の概念に合致している。このように、二大老(毛利輝元、宇喜多秀家)・四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・徳善院玄以)の中で、こうした戦争目標を明確に設定できたのが三成だけであったということは、三成が反家康グループの中核(中心人物)であったことを如実に示している」と。
 慶長5年7月30日付の真田昌幸宛三成書状に記されている戦後構想が改めて取り上げられているわけですが、三成は全国規模でものを考えられる武将であり、明確なビジョンを持っていたことを示す書状だと云えます。

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