石田三成の実像2742 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」20  第二章「関ヶ原前夜ーイエズス会宣教師の透徹した政治分析」10

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第二章「関ヶ原前夜ーイエズス会宣教師の透徹した政治分析」は、論考「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察(その1)ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況」(『別府大学大学院紀要』17号、2015年)に基づいたものですが、大事な点だと思うところを取り上げており、その続きです。 
イエズス会史料には、慶長5年における反家康同盟の首謀者として、石田三成と小西行長の名が挙げられており、さらに次のように記載されています。
 「両名は非常な勇気と智略に富み、太閤様から賜った大いなる恩義を感じていた。太閤様は存命中、この両人に対して深い愛情を常に抱いていたし、両者が大領主になったのも太閤様のおかげであったからである。したがって両者にとり、太閤様の若君(秀頼)が、内府様のために世襲封土を剥奪され、栄誉や身分の点で毀損を被ることに我慢がならなかった。このために両者は、若君に対する忠臣として、どうしたらその身分を今どおり留まることができるか、絶えず心を労してきた。そして両者は、この一点につき諸大名と談合の結果、最終的にこの同盟を結ぶに至った。その成否はかかってかの策略にあったが、日本の政治史においてこの同盟ぐらい入念に仕組まれたものはなかった。これによって大いなる名声と栄誉が、殊にかの二人の領主に帰したのであった」と。
 この記述に関する白峰氏の解説の中で、「家康の政治的野心については、『内府様が政権をとった時には、自分たちは必ず内府様を助け、その陣営に立つであろうという内容』の『誓約』を『内府様は、日本の他の諸侯から徴した』(『イ日報』Ⅰー三)と記されているので、家康の政権獲得への意欲は明らかであったと言えよう」、「反家康同盟が以前から周到に準備されたものであることがわかる」、「当初は反家康同盟の目的が達成され、家康打倒が成功する可能性が高かったことを示している」などと指摘されています。
 諸将が家康に対して上述のような「誓約」をしたことを示すものが、実際に史料として残っているかどうかが気になります。
 「家康打倒が成功する可能性が高かったことを示している」という点に関しては、イエズス会史料の別の記述が三点挙げられています。
 行長と三成が盟約を結んだことを示すものとして、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)の中でも、上述のイエズス会史料の記述が取り上げられています。行長が豊臣政権の「中枢メンバーであったことをストレートに物語っている」ものとして、宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・石田三成の連名の禁制が出されていることが挙げられています。一通は8月27日付で、現在の大垣市内の村に宛てたもの、もう一通は9月5日付でやはり現在の大垣市の西圓寺に宛てたもの。行長が奉行に準じた役割を果たしていたことがわかります。

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この記事へのコメント

みなみ
2019年10月17日 09:57
スマホ使いこなせず困ってます。今回の三成祭関連、中井さんから一度メール貰いながら行方不明。転送いただくと助かります。他にも関連行事があのメール掲載分以外にもあるならお教え、転送ください。
上の事情でアドレスもこのアドレスに移行中です。