石田三成の実像2747 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」22  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」2 小早川秀秋も大垣城に籠城

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられていますが、その内容について大事だと思われる点について触れていきます。
 大垣城に籠城している武将の名に小早川秀秋の名が入っている点が挙げられ、白峰氏の同書では、次のように解説されています。
 「8月28日の時点で、石田三成、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長とともに、小早川秀秋が大垣城に籠城していた、としている点は注目される。この情報は、家康方の先手からの注進によるものであるから、情報としての確度は高いと考えられ、その後の問題として、小早川秀秋がどこから関ヶ原の戦場へ向かったのか、ということを考えるうえで重要な意味を持つ」と。
 小早川秀秋の動向の通説的な理解については、桐野作人氏の「真説関ヶ原合戦」(学研M文庫)に次のように記されています。
 「小早川勢は伏見城攻略ののち、宇喜多秀家・毛利秀元を主力とする伊勢方面軍に組み入れられて東海道を進んだが、鈴鹿越えをして関地蔵まで達したところで、突如、引き返して、今度は日野、愛知川から中山道を進み、近江国高宮に滞陣した。高宮は石田三成の居城佐和山から南東に一里程度しか離れていない[寛政譜第十、小早川秀秋譜]。
 秀秋が高宮に滞陣したのは9月7日から13日までのようである」。
 この後、秀秋は14日になって松尾山に上り、15日の関ヶ原の戦い当日を迎えたというのが通説ですが、このあたりの秀秋の動きについて、以前にも紹介しましたが、白峰氏の「歴史企画『関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー』(2017年8月20日、於佐賀県立佐賀城本丸歴史館)における拙講演『関ヶ原の戦いを再検討する』の内容に関する報告」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所収)の中で一次史料の検討から詳しく考察されています。
 まず上述の保科正光書状が取り上げられ、「このことが本当であれば、小早川秀秋は大垣城から関ヶ原に向かったということになる」と指摘されています。また9月14日、15日の秀秋の居所について、「9月15日当日、小早川秀秋が松尾山にいたとする一次史料は皆無」、「前日(9月14日)に小早川秀秋が松尾山城に入った、とする記載も『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』など後世の編纂史料(二次史料)のみである」とも指摘されています。そういう意味では、伏見城攻撃後から関ヶ原までの秀秋の動きについて、もう一度一次史料の検討から洗い直す必要があることを痛感します。

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