石田三成の実像2748 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」23  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」3 小早川秀秋も大垣城に籠城2

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れていますが、その続きです。
 書状に、小早川秀秋が大垣城に籠城していたという記述があることについて、白峰氏の同書には「8月28日の時点で、徳川サイドの保科正光から見て、小早川秀秋が敵対する部将として認識されていた、という点も注目される」と指摘されています。
 桐野作人氏の「真説関ヶ原合戦」(学研M文庫)の中で、秀秋が9月になって二度にわたって、家康に使者を送っていることが記されています。
すなわち、「その使者は9月3日に小田原、8日に遠江白須賀で家康の本陣に着いているが、家康はどちらも対面していない。とくに3日は不興を露わにして門前払いしている。ただ、8日のときは微妙に態度が違ったようだ。『慶長記』には『御前へは出ず、よきごあいさつと申し候』とある。家康は美濃表での対陣を少しでも有利にしようとして、秀秋の懐柔に転じたと思われる」と。
 こういう「慶長記」の記述、及び正光書状の記述が正しいとすれば、大垣城から秀秋は使者を送っていたのでしょうか。使者の情報から、秀秋は家康の江戸出立を知ったでしょうから、家康の西上を大垣城の三成方が全く知らなかったということも考えにくい気がします。秀秋が大垣城に籠ったままで、14日の夜になって三成、あるいは大谷吉継と共に関ヶ原方面に移動したのか、それともそれまでに大垣城を出て別の場所にいたのか、このあたりは今後検討する必要があります。
 高橋陽介氏は、大谷吉継は「伊勢を経由して9月12日以前に大垣(大柿)に入っており、9月14日の時点では大垣(大柿)にいた」という説を唱えておられ、その高橋氏の説については白峰氏の「歴史企画『関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー』(2017年8月20日、於佐賀県立佐賀城本丸歴史館)における拙講演『関ヶ原の戦いを再検討する』の内容に関する報告」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所収)の中で取り上げられ、次のような指摘がされています。
 「9月14日の夜に大谷吉継、小早川秀秋も大垣城から関ヶ原へ移動したのか?そして、石田三成などは山中へ布陣し、大谷、小早川は関ヶ原へ布陣したのか?」「それとも、9月14日の夜よりも前に(9月13日?)、大谷吉継と小早川秀秋は先に大垣城から出て関ヶ原へ布陣したのか?」「この時点で、大谷吉継は小早川秀秋を味方と思い、疑っていなかった?」「このようにいろいろな想定が可能になる」などと。
 ここには通説とは全く違う想定がいろいろとされていますが、編纂史料や軍記物などの記述を基に形成されてきた従来の関ヶ原観を一旦脇に置いて、一次史料から根本的に検討しなければならない時期にきているのではないかと思います。

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