石田三成の実像2749 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」24  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」4 大垣城を攻囲

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れていますが、その続きです。
 大垣城に籠っている武将の中に、「秀頼様の御馬廻衆の中で精鋭の衆数人」という記述(現代語訳による)があり、そのことに関して、白峰氏の同書では、「大垣城に秀頼の馬廻衆も籠城している、というのは、豊臣公儀の直属部隊が籠城している、ということを意味しており、その意義は大きいものがある」と指摘されています。このことは、石田三成・毛利輝元ら二大老・四奉行が秀頼を推戴した新たな豊臣公儀体制を構築していたとする白峰氏の見解を補強するものになっています。
 この書状には、「家康方の軍勢が(大垣城に)攻め寄せて、去る(8月)26日より付城(つけじろ)をつくって厳しく攻めている」という記述がありますが、このことに関して、白峰氏の同書では次のように解説されています。
 「付城がいくつ構築されたかは記されていないが、8月26日から大垣城に対する攻囲戦が開始されたことがわかる。ちなみに、8月26日は、家康方軍勢による岐阜城攻めの3日後にあたる。
 石田三成方(豊臣公儀方)の諸将が籠城する大垣城を、家康方の軍勢が付城を構築して攻撃する、という構図は、城攻めの定石(基本的セオリー)である」と。
 同日付の保科正光書状は2通あり、今まで紹介してきた書状は家臣の黒河内長三宛てのものですが、この書状には「大垣城を家康方の軍勢が包囲したという記載はない」ものの、もう一通の家臣の松沢右喜衛門尉ら三名に宛てたものでは、「包囲したという記載があるので、大垣城を包囲して攻撃(=攻囲)していたことがわかる」と白峰氏は指摘されています。
 通説では、家康方軍勢は岐阜城を攻略した後、赤坂岡山に陣を置いたまま、大垣城と対峙して、動かず家康の到着を待っていたとされていますが、家康方は着々と大垣包囲網を整えていたわけです。
 大垣城の三成方も家康方軍勢の動きを手をこまねいていたわけではなく、城外に望楼などを築いて対処していました。その一つとして、大垣市河間にある「権現のぞきの地」碑が挙げられます。三成方が赤坂岡山の家康方の様子をうかがっていたとされる望楼があった跡地に建てられた碑ですが、こういう望楼を複数作っていた可能性もあると思います。ちなみに、この「権現のぞきの地」碑はオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で紹介しています。
 

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