石田三成の実像2750 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」25  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」5 奪った書状

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れていますが、その続きです。
 書状に、「(大垣城の)城中の衆より安芸の毛利方へ後詰をするように、という飛脚が来たところを虎口(こぐち)場にて生け捕り、すぐに(このことを)注進した」(現代語訳より)という記述があります。
 このことについて、白峰氏の同書には次のように解説されています。
 「この場合の毛利方とは、南宮山に布陣した毛利秀元を指すと考えるのが妥当であろう。
 とすると、この生け捕られた飛脚以外に後詰を要請する他の飛脚が毛利秀元のもとへ届いたと仮定すれば、毛利秀元が南宮山に布陣した目的は、家康方の軍勢に攻撃されている大垣城に籠城する諸将を後詰として救援することにあった、ということになる。毛利秀元麾下の吉川広家が、伊勢の津城を攻撃して陥落させたあと、美濃方面に出陣して、南宮山に陣取りしたのが9月7日であるので(『(慶長5年)9月12日付け祖式長好宛吉川広家書状』[大日本古文書]〈吉川家文書別集〉609号文書)、この保科正光書状が出された8月29日の時点で、大垣城に籠城している諸将から毛利秀元に対して後詰の要請がすでに出されていて、毛利秀元がその7日後に南宮山に布陣した、ということは、時間の経過としては整合する。よって、大垣城に籠城している諸将からの後詰の要請により、毛利秀元が南宮山に布陣した、という可能性は十分考えられる」と。
 この見解は説得力がありますし、その通りだと思います。この部分の記述で興味を惹かれたのは、三成方の書状が敵の手に奪われたという点です。家康方による大垣城の包囲がある程度始まっていたことを示すものですし、日が経つごとにそれは進んでいったのではないでしょうか。9月12日付の増田長盛宛三成書状が伝わりますが、その中に三成が南宮山を訪ねたという一節があります。しかし、大垣城を包囲されていた中で、そのような危険なことをするはずがないという見解が白峰氏によってなされています。そもそも、白峰氏はこの書状自体が、偽書であることをさまざまな点を挙げて指摘されていますし、私もその意見に賛同します。その三成書状は敵の手に渡ったとされており、確かに、毛利方への書状も奪われていますから、この三成書状も奪われたということは考えられなくはありません。しかし、それにしては、内容的にあまりに不自然な点が多すぎ、三成が書いたものとは到底思えません。中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中でも、この書状に対して偽書だとは記されていないものの、三成が正常な精神状態で書いたものとは思えないという見解が示されています。

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