石田三成の実像2751 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」25  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」5

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。。
 書状に、「(大垣城の)城中の衆より安芸の毛利方へ後詰をするように、という飛脚が来たところを虎口(こぐち)場にて生け捕り、すぐに(このことを)注進した」(現代語訳より)という記述があり、このことについての、白峰氏の同書の解説の前半部分は拙ブログで紹介しましたが、その続きとして次のように記されています。
 「この後詰を要請する飛脚を、(家康方の軍勢が)生け捕って得た情報を注進した、としているが、この注進は、この時点で江戸にいる家康に対する注進と思われ、当時、浜松城に在番していたことから、保科正光が知ることになったと考えられる。つまり、江戸にいる家康への注進は、東海道の諸城に在番していた徳川家家臣の間をリレー形式のように伝達したと推測され、こうした点にも、東海道の諸城に徳川家家臣が在番する意味があったのであろう。
 なお、飛脚を生け捕ったのを『虎口場』としているが、この場合の『虎口』とは『城の出入り口』の意味ではなく、『戦争の際の危険な戦闘、あるいは、衝突』(『邦訳日葡』)という意味であると考えられ、なんらかの戦闘状態の中で、後詰を要請する飛脚を生け捕ったということになる」と。
 関ヶ原の戦いの前は、東海道の諸城は豊臣恩顧の大名が城主でしたが、家康が西上を決めた段階で、家康側に明け渡されました。このことについて、従来は小山会議の席上、山内一豊が自分の居城である掛川城を家康に明け渡すと口火を切ったことから、諸将もそれに同調したというふうに捉えられてきましたが、白峰氏の見解に従えば、小山会議はなかったということですから、家康が命じて諸将がそれに従ったというふうに考えられます。このあたりもそれを裏づけるような史料の発掘が望まれます。
 「虎口場」についての白峰氏の解釈の通りだとすると、家康方と三成方との間で何らかの戦闘、あるいはそれに類する小競り合いがあったということになります。こういうことからすれば、9月12日付で三成が増田長盛宛てに書いたとされる書状の中で、敵の軍勢が何の動きもせずに、ただ何かを持ち受けているでもいるようで、味方も不思議がっているという記述がありますが、それは実際の状況とは違うことになり、この点からでもこの書状の信憑性が疑われます。

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