石田三成の実像2752 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」26  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」6 大垣城は小城

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。。
 書状の中に、大垣城の三成方の軍勢が少ないので毛利勢が後詰をする可能性が低いことについて言及されているのは拙ブログで以前触れましたが、その一方で、「家康方の軍勢は勝ちに乗って、あまりに敵をみくびっているので、このことはあぶない、と思っている」という記述(現代語訳)があり、そのことについて、白峰氏の同書では次のように解説されています。
 「同月23日の岐阜城落城後の有利な戦況が持続するものではなく、敵に逆転される可能性を含んでいる、という意味にとることができる。このように家康サイドの保科正光が、この時点での戦況を決して楽観視せず、冷静に分析していた点は注目される」と。
 実際、岐阜城を奪われた三成方は危機感を募らせ、伊勢方面に展開していた毛利勢だけでなく、北陸方面に展開していた軍勢も関ヶ原方面への結集を呼びかけていますから、どう情勢が転ぶかわからない状況で、楽観視はできないことを保科はよくわかっていたのでしょう。
 またその書状には、「大垣(城)に籠っている軍勢が二万余いる、とのことなので、(大垣城のような)小城にて、そのような(数の)軍勢が立て籠もっていては、すぐに詰まる(=いっぱいになる)だろうと思う」という記述があり、白峰氏の同書で次のように解説されています。
 「大垣城のことを『小城』と指摘している点が重要であり、当時の大垣城の城主伊藤盛正の石高が三万石であったことを考慮すると首肯できる指摘である。
 近年の関ヶ原合戦関連の概説書では、大垣城の紹介をする場合、江戸時代の大垣城天守をモデルにした現在の“復興”天守の写真などを紹介して、大垣城がいかにも広大な城であったかのようなイメージを植え付けているが、当時の大垣城が『小城』であったということを勘案すると、そうしたイメージが歴史認識として正しいものではないことがわかる」と。
 これはかなり重要な指摘だと思います。大垣城が小城であることは三成方も十分認識していたでしょうし、あくまで岐阜城と結んで防衛ラインをつくり、さらに尾張・三河方面まで進出する予定だったと考えられます。それだけに、岐阜城を落とされてしまったことは三成方にとって大きな痛手でしたし、大垣城だけではとても持ちこたえられないと思ったのではないでしょうか。三成が一旦、佐和山に戻ったのも、戦略の立て直しや準備・手当をする必要があったからではないでしょうか。三成は臆病風に吹かれて佐和山に戻ったと小説などで書かれることがありますが、その見方は正しくないと思っています。

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