石田三成の実像2755 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」28  第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」8 大垣城攻防戦が天下の行方を左右

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。
 書状の中に次のような記述があります。
 「もし万々一、美濃口に向い(敵が)後詰をしたならば、大垣の城が落城するまでは、対陣(=敵と向かい合って陣取ること)になるのではないか、と考えている。よって、天下の戦い(=天下をかけた戦い)は、この時に極まるので、佐竹義宣・上杉景勝などが相談して、関東筋へ手合わせ(=合戦で勝負をすること)するのではないかと思う」と。
 この記述について、白峰氏の同書では次のように解説されています。
 「この時点で、佐竹義宣・上杉景勝を徳川家に対する敵対勢力と認識していた点は重要である。
 また、関東に所領があり、徳川家家臣である保科正光が、佐竹義宣・上杉景勝の関東への出兵を、この時点で、現実味があるものと想定していたことは注目される。『天下之弓箭』がこの時に極まる、と記しているのは、毛利秀元が後詰をおこなうと、大垣城をめぐる攻防戦がその後の天下支配の行方をも左右するような両陣営の最終決戦になる、という意味であろう」と。
 もともと家康が大坂城から出陣したのは、上杉攻めのためでしたから、上杉景勝は家康側にとって敵であり、関東に攻め込むのを想定したというのは当然のことですが、佐竹義宣も豊臣政権寄りであり、三成とも結びつきが強く、景勝と呼応して関東に攻めてくる可能性もあると認識していたわけです。三成は佐竹家の取次を務めていましたし、三成の命令のもと家臣が中心となって佐竹領の検地も行ないましたし、慶長2年、宇都宮氏が改易になった時、佐竹氏も連座で改易されそうになりましたが、三成の取り成しによって救われました。
 三成は慶長5年8月7日付で佐竹義宣に宛てて書状を出し、7月26日付の佐竹義宣からの書状を受け取ったこと、家康を討ち果たすことにしたこと、現在の状況などを13か条にわたって詳しく書き記しています。その書状の内容は、真田昌幸宛てのものと共通した点が多く、いかに三成が佐竹義宣を信頼していたかがわかります。実際、佐竹義宣と上杉景勝は協定を結んだものの、結果的には佐竹義宣は家康に対して兵を動かしませんでしたが、佐竹家内部をまとめ切れなかったためでした。この佐竹義宣宛書状では、真田昌幸宛書状と同じく、家康が西上してきた場合には、「尾張・三河のあいだ」で討ち果たすことが記されていますが、岐阜城を奪われてしまったために戦略の立直しを余儀なくされ、大垣城攻防戦の様相を呈してきたわけです。

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